「目的効果基準」と「新しい基準」(その2)

 本シリーズは、【今月21日付の日経新聞の社説の表現に「???」だったことをメイン】に取り上げております。

 そうする理由は、後日、本格的に分析・検討されたものが、順次、紙媒体等で公表されるでしょうからその差別化を図る……ではなく、ただのぢょしこーせーが疑問点を書くだけですから…(^^;。

 なお、前回、疑問点は2つで、その1つが【「目的効果基準」と「新しい基準」の関係】、もう1つは後日発表としましたが、

 2つの疑問点を【「目的効果基準」の定義】【「目的効果基準」と「新しい基準」の関係】にしたほうがいいかなと、後から思いました…。(´・ω・`)

 そして、本日の日記は、【「目的効果基準」の定義】についてだけでして、ほとんど中身がありません…。(´・ω・`)




2.まずは条文

 まぁ、憲法の条文の引用はしなくてもいいような気がするけれど…。

日本国憲法
20条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
○2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
○3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。


89条前段  公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、……、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 20条1項後段・20条3項・89条前段の3つが「政教分離規定」だと言われています。

 20条1項後段は、他の2つの規定と違って、「宗教団体」が主語になっていて、条文上は「国家がしてはいけないこと」が書かれていないようにも思えますが、そういうことも禁止されているんだよ、それが実は判決文にも書かれているんだよ(下に引用した判決文の(a)。)、ということで、次に行きまっしょい。



3.「目的効果基準」の定義

 (1)記事の「目的効果基準」の定義

   まず、前回の日記で引用した部分から、「目的効果基準」の定義を抜書きします。

 ※裁判所は、1977年に最高裁が津地鎮祭訴訟で示したに照らして判断してきた。「国などの行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長または圧迫、干渉になるか否か」の物差しにあてるのである。(日経新聞
 ※これまで政教分離訴訟の判決では、行為の目的や効果が社会通念上、認められる範囲にあるかどうかを判断する「目的効果基準」(津地鎮祭訴訟・大法廷判決=七七年)が踏襲されてきた。(東京新聞
 ※政教分離をめぐる訴訟では、これまで「行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助や圧迫になるかどうか」という「目的効果基準」に照らして、違憲か合憲かが判断されていた。(産経新聞

 表現が微妙に違う場合もありますが、おおむね「目的効果基準」=「国等の行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長または圧迫、干渉になるか否か」と定義されていることがわかります(また、東京新聞の場合は「社会通念」で判断されることも説明されているわけです)。

 そして、この「目的効果基準」は、1977年の津地鎮祭訴訟の最高裁判決で示されたもので、これまでの政教分離訴訟では、この「目的効果基準」が踏襲されてきたのだと…。

 それに対して、前回述べたように、先週の最高裁判決では「目的効果基準」とは異なる「新たな基準」が提示されたのだと…。



 (2)判決文との照合

   では、実際に、判決文を確認してみることにしましょう…。どの判決のどの部分を引用しようか…。

   まあ、あまり深く考えないで、“愛媛玉ぐし料事件の最高裁判決”から…、でも、う〜ん、どこから引用し始めようか…。(´・ω・`)

   「生の判決文」を読みたくない方や、読み直す必要がないという方もおられるだろうし、2クリック先にPDF文書があるし、しかも、引用すると長くはなります。

  しかし、アクセス数の少ないブログですが、せっかくの読む機会になるかもしれません*1。部分的にすら「生の判決文」を読まず、教科書・解説書の要約で済ます方もおられるし*2、そういうのも読まずに「思い込み」で批判されている方もおられるようなので、部分的にでも引用したほうがいいのではないかと…*3

 というわけで、「大は小を兼ねる!」ということで、PDF文書1〜2ページを引用しましょう。(a)(b)(c)と項目をつけて引用しマッスル(太字も、しが研が付した。)。

 (a)憲法は、二〇条一項後段、三項、八九条において、いわゆる政教分離の原則に基づく諸規定(以下「政教分離規定」という。)を設けている。

 (b)一般に、政教分離原則とは、国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされているところ、国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によって異なるものがある。
 (c)我が国では、大日本帝国憲法に信教の自由を保障する規定(二八条)を設けていたものの、その保障は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という同条自体の制限を伴っていたばかりでなく、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた等のこともあって、同憲法の下における信教の自由の保障は不完全なものであることを免れなかった。憲法は、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き右のような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至ったのである。
 (d)元来、我が国においては、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであって、このような宗教事情の下で信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結び付きをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であった。
 (e)これらの点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるに当たり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきである。

 (f)しかしながら、元来、政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であって、信教の自由そのものを直接保障するものではなく国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。
 (g)そして、国家が社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するに当たって、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れることはできないから、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。
 (h)さらにまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない。
 (i)これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界がある〔こ〕*4とを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが問題とならざるを得ないのである。
 (j)右のような見地から考えると、憲法政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。

 (k)右の政教分離原則の意義に照らすと、憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。
 (l)そして、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。

 (m)憲法八九条が禁止している公金その他の公の財産を宗教上の組織又は団体の使用、便益又は維持のために支出すること又はその利用に供することというのも、前記の政教分離原則の意義に照らして、公金支出行為等における国家と宗教とのかかわり合いが前記の相当とされる限度を超えるものをいうものと解すべきであり、これに該当するかどうかを検討するに当たっては、前記と同様の基準によって判断しなければならない。

  以上、何となく、(a)〜(m)の13個に分けました。

  「生の判決文」を確かめるとわかることですが、この部分は、5段落になっており、私の項目立てでいうと、(a)、(b)〜(e)、(f)〜(j)、(k)・(l)、(m)という5グループに対応します。

  で、通常なら、各項目について、要約や説明などをするところなのでしょうが…。(´・ω・`)*5



  さて、(1)で紹介した新聞記事の「目的効果基準」の定義がどこに書かれているかといえば、 (k)のところに書かれているわけです…(社会通念の部分は(l)。)。
  ただ、「生の判決文」だと前の段落になるわけですが、(j)のところに、「目的」「効果」なる単語が登場しているわけで、(j)(k)(l)の関係がどうなのか?(´・ω・`)



 (3)用語法の問題?

  実は、私は、【(j)の部分も含めて「目的効果基準」って言ってもいいヂャマイカ】と、記事を読んだときに思いました。

  しかし、それだけでは、元旦の日記で取り上げた「腰だめ」になってしまう…。

  で、通常ならば、(j)を「目的効果基準」に含む文献・含まない文献をテケトーに探し回るわけですが、網羅的な文献リストは、専門家にお任せするとして、ちょっとだけ具体例を…(^^;。2つの文章を引用します。

 (X)目的効果基準とは、「政教分離原則は、……国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとする」ものであり、特に憲法20条3項「宗教的活動」は、「当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」とする基準である。この基準は〔しが研:以下略〕

 (Y)目的効果基準とは、憲法20条3項の「宗教的活動」かどうかに関して、それを「当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」とする基準である。これは次のような基本的発想に基づく。すなわち、「政教分離原則は、……国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとする」のである。この基準は〔しが研:以下略〕

  (X)は、目的効果基準の一般的定義として、(j)の部分を引用した上で、特に憲法20条の目的効果基準として(k)の部分を引用しています。

  この文章は、小泉洋一「政教分離高橋和之=大石眞編『憲法の争点(第三版)』(有斐閣、1999年)90ページから引用したものですが、同「大法廷判決における政教分離原則違反の判断方法」ジュリスト1114号(1997年6月15日号)38ページでも「いわゆる目的効果基準」として、同様の説明をされています*6



  (Y)は、目的効果基準を、(k)の部分から引用して定義づけています。そして、その「基本的発想」として(j)の部分を引用しています。ビミョーに違う気がしませんか?

  この文章は、先に引用したものの後継版である、石川健治=大石眞編『憲法の争点』(有斐閣、2008年)112ページから引用したものですが、執筆者は同じ小泉洋一氏です。さらに、(j)の部分が定義部分にない場合もあります*7*8

  さて、小泉洋一氏に着目して、「これはどういう意味なのか?一般部分を省略しただけなのかどうか?」「いつ定義が変わったのか、その原因は?」などと調べようかとも思いましたが、そんなことをしていたら、キリがないというか、【日経新聞の社説の表現に「???」だったことをメインに取り上げる】という本筋から外れるので、パス。



 その代わりというか、今日の日記を書き始めていない段階で、23日だったか(おそっ!)、たまたま次の文章を見つけたので、一応「安心」しました…(^^;。


 どの部分をもって「目的効果基準」と解すべきかは、実は必ずしも明らかではな〔い。〕

 引用元:門田孝「政教分離原則の検討枠組に関する一考察」名古屋大学法政論集230号(2009年)275ページ

  ということなので、「目的効果基準」に(j)を含むのか?

  また、憲法20条3項に関して(k)を含むのか、(l)のみを指すのか?*9

  といったことは、学説的には重要な事柄なことだろうし、今回の判決をどう位置づけるのか興味もありますが、

  【日経新聞の社説の表現に「???」だったことをメインに取り上げる】(3度目でクドイ!)つもりの私としては、まずは、冒頭でまとめた新聞記事が、目的効果基準を(l)を含まない形で定義づけているので、それを前提に、「新しい基準」との関係をみていこうと思います。




  以上、長くなったし、まだ構想段階なので、それは、次回に。m(_ _)m

*1:いや、それならば、引用された部分だけではなく、「各判決の全文を味読する」必要があるかも…。まあ、ニホンゴとして読んだとしても、いろいろな読み方があるだけれど…。ここの括弧の部分は、安念潤司「信教の自由」法学教室209号(1998年)57ページからの引用。

*2:読むと新たな発見があるかも♪

*3:まあ、「生の判決文」を読んでも、信頼できる教科書・解説書等の説明・解説がないと意味不明になるかもしれませんけれど。

*4:読み取りミス?

*5:先にも述べたように、「生の判決文」を引用するのが主目的です。教科書等の要約・説明と比較する機会になればいいし、「生の判決文」で理解できなければ、信頼すべき教科書等の要約・説明を参照すればいいわけです。逆に、ダメダメな私の下手な要約を読んで、信頼する教科書等の要約・説明と食い違ったりして混乱するかもしれないし…。少なくとも、今日の日記の段階では…。

*6:このタイプの説明の仕方・用語法として、例えば、芦部信喜憲法判例を読む (岩波セミナーブックス)』(岩波書店、1987年)172ページ、野中俊彦ほか『憲法〈1〉(第四版)』(有斐閣、2006年)315−317ページ〔中村睦男執筆〕など。

*7:例えば、同「政教分離と信教の自由」ジュリスト1334号(2007年5月1日=15日号)76ページ。

*8:最後尾の類型である目的効果基準の定義部分に(j)の部分がない文献として、例えば、奥平康弘『憲法〈3〉憲法が保障する権利 (有斐閣法学叢書10)』(有斐閣、1993年)173ページ、戸松秀典『憲法訴訟 第2版』(有斐閣、2008年)325−328ページなど。

*9:吉崎暢洋「目的効果基準の再検討」平成法学7号(2002年)66ページは、(l)のみを「合憲判定基準」〔「具体的な国の行為の目的及び効果を吟味する段階」のもの(74ページ)。〕とする。