情報の共有状況

 前回までの話とは、一応、別の話です。




1.「積ん読

 買っても机の上などに積んでいるだけで読んでいない本・新聞・雑誌等のこと。積ん読とも表記。
 読書家なら必ず持っているもの。本は腐らないから出会いは一期一会だから今読まなくても、ぜったい読むからなどと自分に言い訳する頃には、数百冊単位の積読を抱えている場合が多い。

 「数百冊かよ! せいぜい十数冊ではないのか?」などという疑問は人それぞれということで…。

 (a)上記定義からすれば、「図書館で借りる。図書館に所蔵されてから読めばいいぢゃん!」という人は、「積ん読」状態にはならないはず…。ただし、文献の存在を認識しながら全く読んでいないというのは、もしかすると、「積ん読」に該当するのかもしれない…。さらに、文献の存在を認識しない場合は、主観的には「積ん読」ではないかもしれないけれど、客観的には…。(´・ω・`)。



 (b)(「手に取った本は必ず買え」と指導されたり、また、図書館に本が入るのは年度末ばかりだから、新たに出版された本をすぐ読むためには、必ず自分で購入しなければならない。そのためにひたすらアルバイトをして読む暇がないという本末転倒の人を含め)、購入した本を全く読んでいない状態の人もいるだろう。これが定義の「典型例」かと思う。



 (c)「本はとにかく買って,目次を見て斜め読みしておよそ何が書いてあるか確認して積んでおき,必要ができたときにきちんと読む,というやりかた」*1は、「全く読んでいない」わけではないので、「典型例」ではないかもしれないけれど、定義には該当するはず。



 (d)もっとも、(c)のようなナナメ読みをしただけで、完璧に内容を把握しているから、改めて精読しない方もおられるだろう…。こういう場合は、「積ん読」にあたるのだろうか?



 以上の話は、今回の執筆に当たって、別に書く必要はないのだけれど、2つの意味で前置きになるかなと。

 つまり、「積ん読」という状態にも、段階があるのではないかということと、

 (c)のように「読んでいない」とおっしゃっても、ちゃんと、「目次を見て斜め読みしておよそ何が書いてあるか確認して」おられるわけで、こういう姿が「実際の研究者のお姿」であって、当たり前だのくらっかーなのだから、こういうことを知らない方はおられないはず…。(´・ω・`)*2



2.『標準 校正必携

> 今まで「理科系の作文技術」で済ませてたモグリなので、今から生協書籍部いってきます・・・ RT @akitjpn: なお、某先生から標準校正必携を持っていない研究者はモグリだと言われたことも付言しておこう。

> @akitjpn ご教示多謝。ただ、後輩の @iyasakasensei にも「持ってないんですか」とこないだ怒られたし、こないだ出した原稿、校正ミスでえらいことになったのでちゃんと「標準校正必携」買います・・・(苦笑)。

> わかりました、妥協せず買います。RT @iyasakasensei: 『標準校正必携』は文字通り必携です。私も校正前に先生から忠告されました。

引用元:http://twitter.com/kfpause/status/82725553861435392
     http://twitter.com/kfpause/status/82727645229481985
     http://twitter.com/kfpause/status/82768363645976577

 現在鍵付きの方の文章が含まれていますが、例のごとく、他人のツイートを無断転載しました。

 twilogで表示できない方のものは引用をやめましたが、上記3ツイートだけでも、「先生」から具体的アドバイスを受けていること、また、「先輩」・「後輩」からもアドバイスを受けていることが分かります。たしかに、「三人寄らば文殊の知恵」と言いまして…*3



 (e)はたして、「標準校正必携を持っていない研究者はモグリ」なのか?

 これを検討する前提として、先の「積ん読」の話と同様に、段階があるのではと。

 存在を知らない、標準校正必携は読んだことあるけれど持っていない、購入したけれどどこにあるかわからない、読んだけれどやり方を忘れた、他の手段で校正のやり方は知っている…etc.

 余計な類型が入っていますが(笑)、この類型の中の「他の手段で校正のやり方は知っている」のであれば、「モグリ」ではなく、「れっきとした研究者」と言えるかもしれませんね♪> 某センセ(笑)



 (f)次の話との関係で、再度申しますが、いずれにせよ、本件については、「先生」「先輩」「後輩」からアドバイスを受けているわけです。本件以外に関しても、いろいろな方から、いろいろとアドバイスを受けている、そういう意味で、情報の共有ができているのではないかと、そういう感じがするわけです…*4

 これに対して、こういうことをできていないところがあるのだとすると、どうしてそういう状況なのかという疑問を持つことになるでしょう…。

 この問題を解決するためには、1つにまとめるとか…(何を?)。

 しかし、「村八分」にされている人もいるだろうから*5、各共同体において、各人について情報流通がなされているかどうか、「有益な情報提供」がなされているかどうかをまずは検証して…*6。(´・ω・`)



3.Festschrift

 次の話も「情報共有」の話なのかもしれません。

 石川健治「Festschrift」法学教室308号(2006年5月)1頁から3文を、便宜上2つに区別・改行した上で、引用。*7

 ……『憲法訴訟と人権の理論』(有斐閣)の内容が、早くも校正段階から私の周辺に漏れ伝わってきた。芦部教授の還暦をお祝いするその論集に、弟子筋の若手が、芦部学説を根柢から批判する論文を続々と寄稿しているらしい。

 フタを明けてみると、果たしてその通り。清冽な知的緊張を漲らせた若武者たちの躍動する姿は、「憲法訴訟論にあらざれば、人にあらず」といわれた時代が確実に過去のものになったことを、教えてくれた。

 この前の文章に、「難解なドイツ憲法理論の手ほどきをして下さった或る若手の先生」「尊敬する憲法学の先輩の1人」の発言の紹介もそうだし、上記引用文の噂に関しては、完全に内部情報の流出があったということであり、しょばつのたいしょー…。(´・ω・`)スマソ

 冗談はここまでにして、まあ、その当時「情報共有」がなされているわけです。



 これに対して、1985年前後にこのような情報に接していなかった者は、どうやってこの情報に接することができるのか?

 今となっては、この2006年の法学教室の巻頭言を読めばいいわけだし*8、本人が読んでいなくても、これを読んだ者が口頭で伝えるだけでも「情報共有」はできるわけだ…。



 では、2006年5月より前の時期だったら?

 『憲法訴訟と人権の理論』を読んでいれば、その「空気」を読めたのだろうか?

 実際に、その「空気」が読めず、「他の論文にあるような批判にすぎない」と感じたものはいなかっただろうか?

 そのような意味で、「読めなかった」であるとか、「理解」することに時間がかかるという意味で、事実上不利益を受けている場合があるのではないか…*9



 もちろん、そのような「情報共有」が、「文献を素直に読む」ことの妨げになるかもしれない。また、芦部学説こそが「正しい学説」であって、それ以降の流れが間違ったものである鴨しれないわけだけれど…。それはそれ。

*1:http://twitter.com/ynabe39/status/97494295241699329

*2:知らなくても、こういうツイートを読んで、「実際の研究者の姿」なんだと認識できれば、「ネットやっていて良かったね」という話になる…。本当に「実際の研究者の姿」なのかどうかは、ただのぢょしこーせーの私にはよくわからないけれど…。

*3:逆に、「三人寄っても烏合の衆」の場合もある鴨しれない、さらに、それが常態化しているうわ…ふじこ。|ω・`)っロックテキホウコクhttp://twitter.com/siganaikenpou/status/100023827790168064

*4:中の人ではない、ただのぢょし…(くどい

*5:また、「村八分」にはしていないが、「内部進学者ではない」「(内部進学者のはずなのに)多数派の進学ルートではない」という理由では、または表立っては、「差別」していない鴨しれないけれど、情報提供がなされないと分からないものはわからないし、わかるまでに時間がかかるという意味で、事実上不利益を受けている場合があるのではないか。

*6:雑談はしていても、それが「有益な情報提供ではない」可能性もあるので…トオイメ。

*7:などと書いていて、この文献をどなたか紹介していたなあとググってみたら、以前、私も書いていたみたい…orz。http://d.hatena.ne.jp/shiga_kenken/20080315#1205561329

*8:「そんな巻頭言あったの?」って、センセー、それは…。なお、あしゅふぉーどな学園には、高等部のほかに…。

*9:って、実際にあったかどうかなんて、「知らんがな(キリっ」。参照:http://twitter.com/siganaikenpou/status/93559783851950080