国家行政組織編成権の所在に関して・その3(完)――あくまで蛇足

 前回までで、「紹介」は一応終わりました。

 以下のエントリーは、日独両国(特に後者)の議論を知らない、ただのぢょしこーせーが、字面を眺めただけの「読み込みが浅い」状態で、蛇足的に「感想・妄想を書く」にすぎず、あまり読まれないほうがいいような気がします…(^^;。

 あっ、その前に、【重要なこと】を一言。

 前回の日記で、村西論文を紹介したわけですが、【私の紹介エントリーを読んだだけ】で、「本質性理論・制度的留保説から行政組織編制権の所在を導き出すのはダメダメなんだ」と思い込まないようにしてくださいね♪

 判断するためには、少なくとも、2000年の大橋論文*1を読む必要があるだろうし、できれば両論文の注にある・注にない関連する邦語文献を読んで、そして日本の法状況を見極めて…、さらには両論文の注にある・注にない関連する外国語文献を読んで… アヒャヒャヒャヒャ ヘ(゚∀゚ヘ)(ノ゚∀゚)ノ ヒャヒャヒャヒャ




 2つ前の日記である「その1」で、「えー、そんなにすごい(緻密な)論文でしたかね…(^^;。」と、疑問符をつけるようなことを書いたわけですが、

 以下のエントリーは、そのような「疑問(?)」がどうして生まれたかを自分で見つめなおしてみるテストでつ。(´・ω・`)


 憲法学説は、実務に受け入れてもらうことをおよそ想定していない理想論を述べている、というかそういう理想論を述べることを自らの使命としている、という側面があると思います。実務に受け入れ可能な学説は行政法で出してもらえばいいということではないでしょうか。

 引用元:大橋洋一=毛利透「行政立法」宇賀克也・大橋洋一・高橋滋編『対話で学ぶ行政法―行政法と隣接法分野との対話』(有斐閣、2003年4月、初出:2001年8月)42−43ページ(毛利発言)




5.村西論文に対する感想・妄想

 (1)話の限定

   村西論文が、前述の大橋論文が用いた文献を含め「代表的な文献」を読んで「検証(追試)」したであろうことはわかる…。そして、村西論文が、大橋論文の理解(解釈・組み合わせ方)とは異なることまでは、「表面的に比較する」だけでわかる…*2

   だからと言って、ドイツの議論状況を知らないし、「どういうものが良い論文なのか」を知らない、ただのぢょしこーせーである私としては、どちらに軍配を上げるかということはできませんですた…。(´・ω・`)

   そういうわけで、まずは、「形式論理」に着目したいと思います。




 (2)「順接」と「逆接」――「他人のふんどしで相撲を取る」

   そうすると、「安直」ではあるものの真っ先に思い浮かぶのは、前の日記の最後で書いたところから生じる疑問。すなわち、

 「ドイツの議論が〔省〕組織規律をあえて任意的法律事項にとどめ、もって行政組織の機動性とこれに対する民主的統制とを調和的に追求しようとしてきた」と指摘しながら、
 どーして、日本では「行政組織の基本的構造(府、省、庁、委員会の設置および事務分掌の定め)……」を義務的法律事項だと主張するのか?

   つまり、ドイツの有力説と日本の有力説が「矛盾」するはずなのに、果たしてそれを整合的に説明できているのか?

   そういうわけで、第1章・第2章のドイツの議論の分析はさておき、それを前提とした場合、「形式論理」的に第3章の「試論」を整合的に説明できるのか?、について若干検討をば。




   確かに、村西論文が指摘するように、日本において、内閣にも固有の組織編制権を認めてもいいかもしれない。その部分を任意的法律事項として、いつでも国会が介入することを認めてもいいかもしれない。

   しかし、両国の議論の相違点よりも共通点を強調しつつも、「わが国においては一定の組織規律を義務的法律事項に組み入れようという傾向が前面にあらわれやすいこと」、

   具体的には、(民主的統制説に該当するとされる特定の行政法学者の条文操作をそのまま利用することなく〔近時、内閣主導を強める立場になりつつある〕佐藤幸治*3を参照して、国会の組織編制権の論拠を「国権の最高機関」に求めるところまでは良いとして)、はたして、

 「国権の最高機関」から「義務的法律事項」を〔「打ち出の小槌」的に〕導き出せるのか?、が私にはよくわからない。
 ドイツと同様、「任意的法律事項どまり」とするのが、「より素直」なのではないだろうか?

   例えば、村西論文によると、ドイツにおける有力な見解は、「閣僚の任免権について規定する基本法64条1項および政治の基本指針決定権を定める同65条によって、首相の省編制権を論拠づける」(123ページ)らしい*4

   (両国の憲法基本法の条文構造を無視して)短絡的に考えれば、例えば、文言上、基本法64条1項に最も近いのは、日本国憲法68条ではないの?(´・ω・`)

   つまり、村西論文が紹介するドイツの議論を「あくまで鵜呑み」にすれば(=「他人のふんどしで相撲を取る」)、基本法54条1項≒日本国憲法68条であるし、「任意的法律事項どまり」のほうが素直なのではないだろうか?



   そして、かなり無理を承知なことをあえて言えば、現行法においても、今後の法改正を待つまでもなくして次のようなことがいえるのではないだろうか?

   すなわち、「行政組織の基本的構造(府、省、庁、委員会の設置および事務分掌の定め)」もまた、【仮にこの規定がなければ政令・府省令その他の形式によっても定めることのできたはずの事項を、法律の形式によらなければならないという意味での法律事項に指定す趣旨】とも言えるかもしれない…(=「なんちゃって全面的・任意的法律事項」説。)*5



   もちろん、「私の見解でも、日本については、義務的法律事項ありますよ!!」と言っておいたほうが、日本の憲法学者行政法学者はともに「安心」「納得」するかもしれない。しかし、それって「空気読んだ」ってことヂャマイカ!!。

   あれ? ほとんどすべての憲法学者行政法学者に喧嘩売ってる?(´・ω・`)




   いやいや、当然、ドイツに行政権側に組織編制権があることは常識である*6

   だから、ドイツの議論を日本に持ち込むことを否定する場合、逆に導入する場合には、組織編制権を(多かれ少なかれ無理して)「立法」に含んだり、「国権の最高機関」から導出したりしてきたはず…。

   そういう意味では、村西論文は、(「無理」は「周知の事実」ではあるとしても)「イデオロギー暴露」したわけで、それを再認識させたという点にには意義がある。

   しかし、私の「なんちゃって全面的・任意的法律事項」説からすれば、不勉強であるがゆえに「形式論理」を主に見るということもあって、村西論文が再認識を促す「任意的法律事項」の部分が目に付いちゃう。

   そして、村西論文が、日本において「義務的法律事項」を導出する根拠を「国権の最高機関」に依存しすぎているように見えてしまう…。

   もちろん、「権力分立の体系における議会の位置づけを考えるにあたって、『国権の最高機関』や『唯一の立法機関』などの性格規定は、実際には不十分な手がかりしか与えない」から「議会や政府…などの諸機関の間で、分業と協働の秩序をいかに形成していくべきか」*7を検討する必要があって、それについて取り組んだのが村西良太「執政機関としての議会 : 「執政」概念をめぐる批判的考察」法政研究(九州大学)74巻1号(2007年)45−127ページである、と。そして、その「読み込み」が私には足りないだけ、からなのかもしれないけれど…。(´・ω・`)



   そういうわけで、今のところ、読みの浅い私としては、「行政組織の機動性を犠牲にしてまで法定化の徹底を図る、その憲法上の論拠をいっそう説得的に提示する必要がある」という指摘(本題である昨年の村西論文412ページ)は、村西説についてもあてはまるのではないかと思う。*8

   そりゃ、現行法が「義務的法律事項」の存在を肯定しやすいから、すべてを「任意的法律事項」とすることに無理がありそうなのだけれど、法改正が叫ばれるようになれば、「法改正すればいいぢゃん。」ということで、現行法は「法律の優位」が働いているだけの状態、になるのではないかなあと…(^^;。*9



 (3)「義務的法律事項」と「任意的法律事項」――「隣の芝生は青い」?

  (2)では、(大した根拠はないが)徹底した「任意的法律事項」説っぽい視点から、感想を述べました。

  次は、逆に、「行政組織の基本的構造(府、省、庁、委員会の設置および事務分掌の定め)」のみならず、「内部部局の基本的構成単位(官房、局、部、課、室)」もまた義務的法律事項であるという立場からということにすると、説明が簡単かな?

  ということで、宇賀教科書19−20ページから引用を。

 「〔行政組織編制権を議会に帰属させる〕アメリカ、イギリスにおいては、行政組織編成権の行政への広範な委任は、議会による拒否権や同意権とセットになっているのであり、日本においても、行政権による自律的組織編成の承認は、国会による監視と統制を留保したものでなければならない。そのためには、行政権による自律的組織編成に関する情報が国会に報告されることが不可欠の前提になる。」

 ここも、英米についても詳しくないので、上の理解が大勢なのかどうか、また「セット」(交換条件)なのかどうか知りません…。(´・ω・`)

 だから、あくまで印象論・妄想なのだけれど、日本において、義務的法律事項・任意的法律事項を議論する際に、国会による監視・統制の留保、そのための国会への報告ということが語られているのだろうか?、という疑問です。

 日本で「任意的法律事項」だといえば、「効率か非効率かは自由に判断するし、作る・作らないも自由に決めることができる。作る・作らないどちらにしても、責任は負わない。」っていうイメージがある(=「隣の芝生は青い。」?)。組織規範であるがゆえに裁判所の統制は効かないだろうし、そもそも裁判所が出てきても…。(´・ω・`)

 そういう心配から、村西論文を読むと、例えば、ドイツのところでは「責任」という言葉が出てくるのだが、第3章になると出てこない…*10。「民主的統制」という言葉は出てきますけれどね…。ここにいう「民主的統制」というのは、「各自の責任」を含む意味で使われているのでしょうか?*11

 これも、ただの偏見であって、日本も、英米独仏と同様に、「各機関がそれぞれ責任を追う体制が作られている」のであればいいし、英米と独の「悪いところ取り」にならなければいいのですが…。(´・ω・`)



 以上、日本・外国(特に後者)の議論を知らない、ただのぢょしこーせーが、大して文献を読まず、村西論文の字面を眺めただけの「読み込みが浅い」状態での「感想・妄想」を読んでいただき、ありがとうございました。m(_ _)m

 昨年ミクシに書いた日記を思い出したので、次はそれを書こう…。(← 備忘録)

*1:大橋洋一「制度的留保理論の構造分析――行政組織の法定化に関する一考察」同『都市空間制御の法理論』(有斐閣、2008年11月)264ページ以下〔初出:2000年〕

*2:例えば、大橋論文が指摘する「グロース教授は、現代的な制度的留保の考えからすれば、内閣レベルであっても、制度的留保の考え方を導入すべきであると説く。」(282ページ)という点については、村西説は今のところ消極視するのだろう…。大橋論文は論文集所収の際、めずらしく[追記]がなされたが(284ページ)、残念ながら村西論文に対するコメントはなかった。

*3:佐藤幸治日本国憲法と行政権」同『日本国憲法と「法の支配」』(有斐閣、2002年)223ページ〔初出:1999年〕

*4:この点、佐藤功『行政組織法〔新版・増補〕』(有斐閣、1979年)137ページ以下では、では、基本法86条・65条を参照していた。

*5:なお、【】部分は、村西論文がおそらく積極的に評価する論文であろう、小早川光郎「組織規定と立法形式」芦部信喜先生古稀祝賀『現代立憲主義の展開 (下)』(有斐閣、1993年)の478ページの表現を真似たが、小早川説は、要は、行政組織の基本的構造(府、省、庁、委員会の設置および事務分掌の定め)は義務的法律事項で、内部部局の基本的構成単位(官房、局、部、課、室)のみを任意的法律事項とする立場であり、私の「なんちゃって全面的・任意的法律事項」説とは異なる。

*6:アメリカおよびイギリスにおいては、その憲法原則から、行政組織編制権は基本的に立法部にあるとされ、したがって行政組織は法律で定める(立法的統制に服する)ことが原則とされている。これに対して、西ドイツにおいては行政組織編制権はほんらい行政部にあることが憲法原則とされ、したがって行政組織は行政部の命令で定めることが原則とされている。そして日本国憲法の下における憲法原則は、右の両者のうちアメリカおよびイギリスのそれであり、西ドイツのそれではないことは明らかであろう。」。佐藤功『行政組織法〔新版・増補〕』(有斐閣、1979年)140ページ。

*7:この段落の引用は、林知更「立憲主義と議会」安西文雄ほか『憲法学の現代的論点 第2版』(有斐閣、2009年8月)138ページ

*8:まあ、「試論」であるし、ご本人も、続けて「問い直されるべきだ」とおっしゃているが…。

*9:具体例が思いつかないし、あくまで机上の話なのだけれど、省の所掌事務が法律に一応明記され、その上、中央・地方の所掌事務が重複している現行法上、新たに法律を制定することなく「自治事務」を奪うことは、可能なのだろうか?

*10:PDF文書だと、検索が楽ですね♪

*11:これも、一昨年の方の村西論文の読み込み不足?