意見の多様性と多数決・その5−5(完)

 これまで、こちらでは、以下の日記において、昨年9月1日以降ミクシで行ってきた「徴兵制の違憲性」「防衛費GNP1%枠」の問題についてのコメントのやり取りの「骨子」をご紹介してきました。

 1.前振り
  http://d.hatena.ne.jp/shiga_kenken/20090101#1230801880
 2.徴兵制の違憲性(意見の多様性と多数決・その4−1〜その4−3)
  その4−1:http://d.hatena.ne.jp/shiga_kenken/20090114#1231939052
  その4−2:http://d.hatena.ne.jp/shiga_kenken/20090115#1232023008
  その4−3:http://d.hatena.ne.jp/shiga_kenken/20090117#1232179541
 3.防衛費GNP1%枠(意見の多様性と多数決・その5−1〜その5−5)
  その5−1:http://d.hatena.ne.jp/shiga_kenken/20090208#1234089462
  その5−2:http://d.hatena.ne.jp/shiga_kenken/20090209#1234105606
  その5−3:http://d.hatena.ne.jp/shiga_kenken/20090210#1234187932
  その5−4:http://d.hatena.ne.jp/shiga_kenken/20090212#1234441956
  その5−5:今日の日記

 今日は、防衛費GNP1%枠問題における先方の立論に対する疑問(「徴兵制の違憲性」のときの立論と共通する部分も含む。)と、「後日談」を。

 コメントのやり取り、私の1回のコメントで(引用・改行・空白を含めて)1万字を超えたことが何回かあるなど、膨大なコメントすべてをこちらで載せるわけにはいかないので、取捨選択した上で、短めにご紹介…(^^;。
 1月1日の日記など、以前に書いたことは、なるべく重複を避けるようにしたいと思います。


1.先方の立論に対する疑問

 (1)「軍事的合理性」とは?

  先方の「徴兵制がイクナイ」(徴兵制反対)のも「1%枠がダメダメ」(増額すべき)なのも、その根拠は「軍事的合理性」(Bさん・Cさん)。「効率性」という言葉を使われる方もいらっしゃった(Aさん)。

  さて、私は、それほど、軍事的な分野の文献を読んだことはない。だから、タイトルに「軍事的合理性」という言葉が使われているから、たまたま読んだのですが、たとえば、亘理格「軍事的合理性と憲法9条の論理――武力攻撃事態等における国・自治体・国民関係の視点から」ジュリスト1260号(2004年1月1日−15日号)102ページには、

 以上のような武力攻撃事態等における対処基本方針の特徴を総合して言えば、有事における多様な対処措置を前倒し的かつ一括的にとることを可能なら閉めようとする仕組みであり、その意味で、軍事的合理性に立脚した法制度であると言えよう。

 と書かれています。亘理論文において、99ページのタイトルを除けば、「軍事的合理性」という用語はこれが最初。で、「軍事的合理性」とは何か?

 もちろん、「以上のような」ですから、その前の部分を読めば、武力攻撃事態対処法の説明があるわけです。しかし、それが「軍事的合理性」の内容をさしているのでしょうが、いったいどういう意味なんでしょうね。

 結局、「軍事的な観点から合理的だと考えられるもの」くらいでしょうか。

 で、亘理論文から離れて、コメントしてくださった方の話に戻りますが、この点については、一応の説明がありました。

 しかし、それでも疑問があるのです。つまり、かりに「敵の意図を挫く・敵勢力を撃退する」というような目的に照らして、手段の「合理性」「効率性」が問題になるとして、どういう観点から「合理的」「効率的」といえるのか? たとえば、味方の兵士・自国民の犠牲を考慮に入れるのか?

 極端に言うと、「目的達成のために手段は選ばない」的発想であれば、目的達成のために、目の前にいる自国の避難民を戦車で踏み潰すことも、「合理的」「効率的」といえますよね…。

 そして、「軍事的合理性」を重視するとして、なにゆえ、「徴兵制合憲かつ反対」「防衛費増額すべし」という結論に達するのか?

 後者について言うと、「先進各国(または近隣諸国)の軍事費が対GNP比で高率だから」という理由であるなら、(インクリメンタリズムに対する批判にもなりうる)「横並び」って言われないのか?

 Cさんからは「『軍事的合理性』の定義にこだわった人は、私以外にいない」というようなことを言われたのですが、次のことを考えれば、一応検討する価値があると思うんですがね。つまり、「人権は『公共の福祉』による制約を受ける」のは一般原則ですが、誰かがその制約が「『公共の福祉』による制約である」といえば、その制約は当然許されるのかどうか、と同じような「発想」です。「『軍事的合理性』から当然…すべきだ」と言われて、納得できますか?



 (2)お三方があげられた「根拠」

 Cさんから次のようなことを言われました。「我々は増やすべき根拠は示した。あなた〔しが研〕が示した根拠・状況というのは、たいした根拠にならない。だから、『1%枠が合理的である』根拠を早く示せ。」と。

 しかし、私の立論・私が「1%枠自体が正しい」と言っているつもりはないことは、前回の日記等で書きました。



 で、(これまで書いた部分もあるし)長くなるので、お三方が示された「根拠」を逐一書きませんけれど、「相手を説得できる根拠」になっているのでしょうかね…(^^;。

 たとえば、

 (a)「仮想敵の軍備増強」「MDミサイル防衛など仕事が増えた」などという理由でどこまで増額できるんでしょうね。

  「おらの村に道路がほすい」「公教育財政支出の対GNP比が低いから増やすべし」ということなどと、どう違うんでしょうかね。

  かりに、それらが「増やす」根拠になるとして、防衛費だけを増やすことが果たしてできるのか?

  他の予算を分捕る・増税するとして、他の省庁・他の族議員、一般国民を説得できるのか? かなり疑問です。

  彼らが前提とする「国民は気分で動く」ということであれば、「そういう気分になる」ことを待つのか?神頼み?人為的にそういう環境を作り出す?

  ちなみに、Cさんは、「防衛費が減らされる・現状維持になる」原因は「財政赤字」である旨おっしゃっていましたが、「財政赤字であっても予算が増える場合がある」ことの説明になっていないし、私の立論に比べて原因の説明になっているのでしょうかね。また、「外交」についてもきちんと検討している旨おっしゃっていましたが、「参考にされた文献」等を示してくださらないので、「そうだと思う理由がない」のですが…(^^;。



 (b)あるべき予算審議
  Bさんは、「防衛費に関する予算審議がダメダメ」というご趣旨の批判をなされました。

  「あるべき予算審議」って何なんでしょうね…。

  一般に、「国会審議がダメダメ」と言われるし、そうなのだろうと思いますが、それは、防衛費に限りませんよね。

  「きちんとした審議がなされた上で、予算が現状維持、減額になったら矛を収める」というようなこともおっしゃいましたが、きちんとした審議がなされる前に、私とのコメントのやり取りをやめられたわけです…。(Bさんが、もっとも我慢強く、私とコメントのやり取りをしてくださったけれど…。)

  で、防衛費に関して、本当に、まともな審議ができるのか?

 安全保障問題についても、民主的な政治過程で決める範囲を憲法で限定することに、私は意味があると思います。そもそも、国会議員でさえも、防衛問題にかかわる情報の多くを知らされていないことが通常で、情報が限定されれば的確な判断を下す能力も低下します。それに、国の安全にかかわる決定は、人の情緒に強く訴えかける傾向があって、冷静な判断がそもそもむずかしいですね。かといって、軍事専門家に任せればいいというわけにもいきません。彼らが本当に国民全体の利益を真剣に勘案するのか、自分たちの組織の最大化や天下り先の確保に執心しはしないか、という懸念もあります。さらに、本当に合理的に防衛問題の審議が行われたとしても、個々の国家ごとに合理的に行動しようとすると、すべての国家が軍拡競争に巻き込まれてしまうという囚人のジレンマもその先に控えています。
 周辺へのアナウンスメントの効果も含めて考えると、憲法解釈はあまりブレないほうがいいと思います。そのときどきの情勢がどうだからといって、「あのときの解釈はこうでしたけれど、いまは違います。」というわけにはいかない。国家が個々の案件を決めるような感覚で、憲法の解釈をそのつど変えたりすべきでないと思います。

 出典:長谷部恭男・杉田敦これが憲法だ! (朝日新書)」(朝日新聞社、2006年)90−91ページ(長谷部発言)

  引用文からは、防衛問題は国会議員ですら知りうる情報が限定されることから冷静な判断をすることが難しいことが読み取れるし、「憲法解釈」のところを「防衛費」と置き換えることができるのであれば、「防衛費1%枠」にこだわる理由になるのではないかと…(^^;。



  確かに、「日本国の進むべき道」が(国会においては)議論されていないのかもしれない。しかし、それは、国会議員がどこかの料亭で、または、内閣が議論している。あるいは、暗黙のうちに、存在するのではないのか?*1
  「それではだめだ。議論は国会で。」だけではなく、「決定も国会で」というのであれば、たとえば、有事法制における内閣への決定の委任は「ダメダメ」なんて話になってきそうですね…。しかし、そうは思われないはずですが…(^^;。




 (c)金額的な枠の必要性

  Cさんは、「GNP1%枠というような金額的な枠は、一切いらない」というようなことを明言されました。

  本当に要らないのでしょうか?

  まず、確かに、「金額」と「防衛力」(軍事力)は一致しない、「防衛力」と「侵略できる軍事力」は一致しない、というのは首肯できる。しかし、では、たとえば「防衛力」を「『自衛隊装備年鑑』(各年度)の性能諸元」*2に求めるとして、軍事素人である国会議員が、「性能諸元から最小限度の防衛力」を簡単に算出できるのだろうか?不正確ではあるものの「ワカリヤスイ」枠は必要なのではないのだろうか?

  また、「財政的な歯止め」は必要なのではないのだろうか?

  次の議論を持ち出す必要なく、「財政的な歯止め」自体は必要だろうと思うのですが、あえて、引用。

 国内の政治過程が非合理な決定を行う危険、そして個々の国家にとって合理的な行動が国際社会全体としては非合理な軍拡競争をもたらす危険に対処するためには、各国が、憲法によりそのときどきの政治的多数派によって容易に動かしえない政策決定の枠を設定し、そのことを対外的にも表明することが、合理的な対処の方法といえる。憲法第9条による軍備の制限も、このような合理的な自己拘束の一種と見ることが可能である。

 出典:長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)』(筑摩書房、2004年)155ページ

 引用部分の「憲法第9条」が、「GNP1%枠」と一致することはないにはしても、防衛問題については、通常の財政的歯止め以上のものが必要だと思うんですけれどね…。



2.後日談

 そもそも「徴兵制」「防衛費GNP1%枠」に関しては、周辺に聞きまわったので、公開を限定しているミクシではなく、誰でも読めるこちらに書くのは、身バレの危険性大なのですが…(^^;。

 それは覚悟の上で、いくつか「後日談」を。

 (1)「軍オタは…。」

  いつのmixi日記で書いたのか見失った…。(´・ω・`)*3
  ある方(Fさんとしておきましょう。オタクだけれどネット嫌い。)に、今回の件について、「ネットでこういうコメントのやり取りをしている」ということを話した時の会話。

 Fさん:「ひょっとして、その人たちは、軍オタ? 軍オタに議論吹っかけちゃいけないよ。ネットでの議論は、やめなよ。」

 私:「別に趣味を批判しているわけではありませんよ。アニメオタの人が好きなキャラクターを私は嫌いだとか言ったり、キモイとか言っているわけではありませんから。ネットでも議論できると思うんですけれどね。」

 Fさん:「アニメオタと、(一部の)軍オタの人は違うの。自分のテリトリーに入ってきたら噛み付くんだから。自分の好きな兵器を自国の軍隊に持たせようとか思うんだから、そういう兵器はそもそも持てないとか、予算の関係で持てないので我慢してくださいなんていったら、ダメなんだから。自分の趣味の批判だと受け取られるの。」

 以上のような会話(大意)は、議論し始めてから1ヶ月くらいたったころのことだったと記憶していますが、私は、Fさんの「偏見」には賛同できないので、その後も議論を続けてきたんですけれどね…。



 (2)「ネットバトルの歴戦の勇士」の陥穽

  1月1日の日記も含め、何度か、同じようなことを言ってきたので、繰り返す必要はないのですが、これが一番重要なことなので…(^^;。

  先方は、私と比べ物にならないくらい、ネットバトルに慣れておられる。

  「軍オタ」であるがゆえに、軍事知識も豊富。専門家である軍事評論家の知識の誤りも指摘される。その点は、賞賛することはできる。

  しかし、「(重大な誤りの部分もあろうが)些細な誤り」があるがゆえに、「その人の議論すべてが信頼できない」とされるのであれば、大問題。いや、もっと言うと、「耳が痛いことを言われるのが嫌だから、揚げ足を取ることで、信頼できないことにする。」というのが本心なのではないでしょうか。そして、「説得力がないとすることで、その理由の存在自体を否定したい」のではないだろうか?



  ネットバトルに慣れているがゆえに、私が「例の痛いやつと同じだ」と思われたかもしれません。

  しかし、そういう方々が、欠点があるがゆえに「害悪を撒き散らしている」のだとしたら…?

  これまでの「論敵」が指摘してきたことが、「実は当たっている」のだとしたら…?

  というわけで、1月1日の日記を一部再掲。

1.一部のコミュのやり取りに対する「最小公倍数」的な【印象】

 (1)意見の異なる人に対する脊髄反射的なレス。
 (2)相手方の意見に耳を貸さない。
 (3)自身の根拠は、感情的なもの。そうでなくても、「自分たちの常識」「自分がそう思うから」というだけで、根拠を示さない、相手方へ情報提供しようとしない。
 (4)自分から噛み付いたのに、相手方に反論されると、「罵倒」「人格攻撃」をする。そして、相手方を追い出す、または、「根拠にならない」「時間の無駄」と立ち去る。
 (5)素人さんの排除。相手方への情報提供をしないから、素人さんたちは、何を勉強すればいいかわからない。書き込もうとしなくなる…。

 例えば、非武装中立論・無防備都市宣言の結論が自分の意見にそぐわないというだけで、攻撃していないのか?
 その前提となっているはずの治安維持に必要な警察力等をどうするのか、聞いているのか?

 自分の思ったことを書き込むというのは、自分自身のストレス解消にはいいですが、相手方の立場を考えると、どうなんでしょうかね…。




 さて、ある方(Gさんということにしておきましょう。)との会話(大意。再現不正確。)。

 Gさん:「そんなに大変な思いしてコメントのやり取りを必要ないぢゃん。向こうの欠点を指摘する必要ないぢゃん。改善してくれないほうが、向こうは他人を説得できないだろうから、それはそれで、こちらには得ぢゃん。」

 私:「私は、この論点における損得・短期的な損得を問題にしているわけではない。価値観が違う人とどう議論していくべきかということを考えていきたいし、マイミクが感情論だけでコメントしているのであれば、私も含めて周囲の人に迷惑をかける。もっと言うと、そういう人が多ければ多いほど、社会にとって不幸なことだ。そういう人を少なくしていくことは重要だと思う。

 長文の駄文を読んでくださり、ありがとうございました。m(_ _)m

*1:たとえば、GNP1%枠が「60−70年代の“軽武装”+経済成長政治の象徴」(渡辺治政治改革と憲法改正―中曽根康弘から小沢一郎へ』(青木書店、1994年)309ページ)であったとして、90年代に、日本の安全保障政策の根本的転換があって、「自由な市場秩序の唯一の守り手となったアメリカは、NATOとともに日本に対して、市場秩序維持のための軍事分担を求めてきた」、「グローバル化した日本企業の進出著しいアジア太平洋地域を中心とする海外への軍事プレゼンスが求められた」(引用は、渡辺治有事法制のねらい――『日本有事』から『グローバル有事』への転換」法律時報74巻8号(2002年7月)88−91ページ。)のであれば、防衛問題の指針はそれなのではないのか。良い悪いは別にして…。

*2:参照、瀬川高央「『割りかけ回収」制度と日本の防衛力整備 : 1950年−1985年』經濟學研究(北海道大学)55巻3号(2005年)50ページ注50(PDF文書19ページ)、51ページ注51(同20ページ)http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/5286

*3:昨年11月26日のmixi日記でした…。