意見の多様性と多数決・その5−4

 今日は、「防衛費GNP(GDP)1%枠問題」に関する「私の立論」の続きです…(^^;。昨日は、「問題提起の意図」とそれに対応した「結末」部分しか書けませんでしたからね。(´・ω・`)





4.私の立論

 (2)私の立論

 「俺様はこんなに勉強したぞ」ってことを誰でも見れるブログなんかで書かなくてもいいんですが…(そもそも自慢できるほど大して勉強してないから…。)。(´・ω・`)

 「インクリメンタリズム」というだけで私の立論を理解(推測?)してくださる方もいらっしゃたし、「インクリメンタリズム」なんていう用語を使わなくても、「1%枠が撤廃されたはずなのに、ここ20年ほど、1%を超えたことがないことにはそれなりに意味があるし、今後もそうなのだろう」と言えば、その意見に「賛同」されなくても「理解」してくださるのではないかと思うんですよね…。

 まあ、結論が異なると(同じでもか…)、私ごときの「予測」に対して「理論的に説得力がない」と指摘したところで、そう簡単には世の中変わらないだろうし…。

 そういう言い訳をした上で、恥ずかしながら私の立論をご紹介…(^^;。

 ミクシでは、昨年9月5日・20日・25日に書いた3つの日記を、順番変えたり、理由の数を減らしたり、文章を圧縮したりして、こちらに書く、って感じでしょうか…(^^;。


 【目次】
 A.「インクリメンタリズム」が「根拠」になるのか?
 B.「国内政治」における「完全撤廃」の困難さの「示唆」
 C.国民の「支持」
 D.防衛費後年度負担の「からくり」
 E.「境界線」の議論
 F.「民主主義の危機」論




 A.「インクリメンタリズム」が「根拠」になるのか?

 「インクリメンタリズム」とは何か?なんてことを書き出すと、長くなりそうですね…。

 教科書的な説明としては、たとえば、西尾勝行政学[新版]』(有斐閣、2001年)255-256ページ(14章)を。

 (実際に次のような指摘はなかったが)「インクリメンタリズム」と「多元的相互調整の理論」は区別すべきだというような批判に対しては、たとえば、今村都南雄ほか『ホーンブック 基礎行政学』(北樹出版、2006年)143ページが区別していない。また、「わが国の実際の予算編成過程・政策決定過程は、それらでは説明できない」のであれば、そう指摘している文献を紹介していただけるとありがたいんですけれどね…(^^;。

 「増分主義」だから、「減らされるときに厳密な主張をしないのか」「仕事増えたのだから予算増えなきゃおかしい」なんていう指摘は論外(笑)。



 「嫌い」と言っているのに、「根拠だ」などといった「インクリメンタリズム」。

 「インクリメンタリズム 合理性」なんかでググッたら、「だめだろこれ」っていう評価は簡単に見つかるし…。*1



 「前例主義」はイカン、というのはわかる。私もそう思うときのほうが多い。

 しかし、「悪しき前例主義」が悪いのはわかるけれど、「良き前例主義」はないのか?

 批判される方は、実際、「過去の実績(経験)からして、今回(今年)はこうしよう。」なんていう経験はないのだろうか?

 そういう意味では、批判される場合、「悪しき」「良き」の判断基準というか、「価値観」の問題かもしれない…。

 だからこそ、「前例主義はイカン」という「理由」を説明・説得しなければならないのではないのか?
 そういうわけで、「現状がそうではない以上、おかしいとする根拠を示さないと、あなたの負け」という、ズルい女の私、みたいな事を言ったんですが…。

 というわけで、次の理由に移ろう。



 B.「国内政治」における「完全撤廃」の困難さの「示唆」
 これは、「過去の事例からして、現状を変えるのは難しいのでは?」という「示唆」です。

 「簡単に変えることができる」と信じておられるのであれば、「これまで変わってこなかった」ことや「今後は変わるだろう」と主張するための「根拠」が必要なのではないか?

 「現状を変えることが難しい」という私の説明に納得してもらえれば、「今後どういう説得をするつもりなの?」という話になるわけですね…。

 ちなみに、ミクシでコメントした方には、「GNP1%枠は(非理性的な)国民を納得させるためのもの」であって「合理的ではない」という主張をされる方もいらっしゃいましたが、「ぢゃあ、気分で今後GNP0.5%枠になるかもしれませんね。」ってことになりかねませんよね…。(非理性的・気分で動く)国民感情を動かすための方策は立てておられるんでしょうか…(^^;。



 というわけで、2つほど「古い事例」を代表的な文献で紹介を…。

 「新しい事例」ですか? 最近、どなたがそういう研究されているんでしょうね…(^^;。



 まずは、大嶽秀夫「防衛費増額をめぐる自民党の党内力学――1981年度防衛予算――」『日本政治の争点―事例研究による政治体制の分析』(三一書房1984年)281−296ページ。

 長くなるので、私なりの表現で、簡単に言うと、1981年度予算の策定時期は、中曽根政権発足前(鈴木内閣)。

 前年比7.6%増に「抑えられた」原因にはいろいろあるけれど、

 自民党タカ派の国防議員の影響力の弱さのほか、
 そのタカ派の強硬姿勢が予算決定のスケジュールの混乱を招き、内閣の重大な行政上の責任を妨害するゆえ、現状維持的な力が強力に働いた、
 「防衛予算を急激に増やすなら、わしらにもクレクレ。」というような予算編成に内在的な漸進主義という保守的・現状維持的傾向があった(← まさに「インクリメンタリズム」でしょ!!) *2
 大蔵省の予算総額の強い抑制傾向
 自民党首脳による世論への配慮(鈴木首相のリーダーシップ)

 があったそうですよ。



 また、渡辺治政治改革と憲法改正―中曽根康弘から小沢一郎へ』(青木書店、1994年)309−313ページによると、あの中曽根政権における1%枠突破のときも、それに至る過程で、いろいろ紆余曲折あったらしいですね…。



 で、(そういう事情をご存知かどうかは定かではなかったのですが)近年のタカ派の台頭(?)、軍事的なことに理解のある国会議員の増加だけで(というか、そういう事情があるとして)、そう簡単には事が運ぶように思えないのですが…。今後、これまで「できない」とされてきたこと、してこなかったことをやっていく…、積極的に「既成事実」を積み重ねていってもです。



 C.国民の支持


 で、「既成事実」を積み重ねていても、国民からの「明確な反対」があれば、なかなか実現は難しいかもしれないわけです…。

 Bでも述べたように、「自民党首脳による世論への配慮」によって、増額幅が「抑えられた」わけですからね…*3

 で、国民の支持はというと、内閣府自衛隊・防衛問題に関する世論調査(平成18年2月実施)

 http://www8.cao.go.jp/survey/h17/h17-bouei/2-3.html
 くらいから「推測」するほかない…。

 全般的に見て日本の自衛隊は増強した方がよいと思うか,今の程度でよいと思うか,それとも縮小した方がよいと思うか聞いたところ,「増強した方がよい」と答えた者の割合が16.5%,「今の程度でよい」と答えた者の割合が65.7%,「縮小した方がよい」と答えた者の割合が9.4%となっている。
 前回の調査結果〔平成15年1月実施〕と比較して見ると,「今の程度でよい」(61.8%→65.7%)と答えた者の割合が上昇している。

 「今の程度でよい」が3分の2、しかも、割合が上昇している…。

 しかし、「増強=金額的に1%を超えない」というわけではないし、Bのところで紹介したように「GNP1%枠は(非理性的な)国民を納得させるためのもの」かもしれない。

 また、「支持」にもさまざまな要因・程度があるように、「支持しない」にもいろいろある(「支持しない=明確な反対」とは限らない)。

 さらに、気分によって、多数派が変わるかもしれない…。

 しかも、次の問題がある…。



 D.防衛費後年度負担の「からくり」

 ここでは、防衛費の「欺瞞性(の疑い)」を指摘します。だから、そもそも「1%枠自体が正しい」とは私も思っていない…。「1%枠の合理性の根拠を示せ」と言われても、そもそも「正しいことを論証する準備」をしていなかったのですが…(^^;。

 2つ前の日記である2月9日の日記の冒頭で引用したように、石川論文では、「GNP1パーセント枠というそれ自体何の理論的根拠もない」という指摘もありますしね…(^^;。*4
 で、この項目で、とくに依拠したのは、瀬川高央「『割りかけ回収」制度と日本の防衛力整備 : 1950年−1985年』經濟學研究(北海道大学)55巻3号(2005年)33−53ページ*5 、同「日本の防衛費に関する研究――防衛力整備と後年度負担の変化を中心に」アジア太平洋研究(成蹊大学)31号(2006年)83−99ページ。

 瀬川氏の研究によると、周知のごとく、防衛関係費として計上されるものは、

 (a)「人件・糧食費」
 (b)「歳出化経費」(いわゆる後年度負担。前年度までの後年度負担の支払い分。)
 (c)「一般物件費」(当年度の支払い。油購入などのほか装備品の当年度支払い分。)

 に分類される。通常は…(=「歳出予算」ベース)。

 ところが、(私なりにラフに言うとですが)「契約ベース」(=「契約予算」)、つまり、「前年度までの後年度負担の支払い分」を除き、かつ、当年度で決定された新規分の「後年度負担の支払い分」を含めた金額で防衛関係費を見ていくというわけです。

 そうすると、1978年度・80年度および82年〜90年度に、GNP1%を超えていたそうです。

 復習がてら説明すると、1%枠を設定したとされるのは1976年11月、撤廃したとされるのは、85年12月末で。その後、実際に超えたのは、「歳出予算」ベースでは、88〜90年度。ぜんぜん違うぢゃあ〜りませんか?(´・ω・`)*6

 1%枠を「設定する」のも「撤廃する」のも、「欺瞞」というか、何かの「象徴」にすぎないようにも思えますよね。

 私の妄想かもしれませんが、「超えそう」になったら、後年度負担にまわしていたのではないのでしょうかねえ…。

 しかし、枠を「撤廃」したのに、「歳出予算」ベースで、1%を超えないのはなぜなのか?

 やっぱり、その後も、「歳出予算」ベース、つまり表面上は、「超えないようにしてきた」ということなのでは? そういう「暗黙の了解」があったのではと…。

 だって、(今後もそうですが)超えたりしたら、各方面で騒がれるでしょうしねえ…。

 というわけで、「増額派」は、誰を「説得」しないといけないんでしょうかねえ…。*7



 E.「境界線」の議論

 では、「1%枠」が「無意味なものか」というと、そうではないのだろう…。だって、Bのところで紹介したように「GNP1%枠は(非理性的な)国民を納得させるためのもの」であること自体は、先方もお認めになっておられるのだから…。

 それを、「小難しく」理論的に正当化しようとかと思って(そういう議論が出てくることを予想して)、思い出したのが、「境界線」の議論。

 …何が適切な国境の引き方かに関する原理的で一般的な回答が存在しないということが、まさに、国家が現在の国境にこだわらざるをえない理由にもなる。適切な国境の引き方に関する原理的な回答が存在しない以上、現在の国境から後退を始めれば、踏みとどまることのできる線は、原理的にはどこにも存在しない。まったく恣意的に引かれているかに見える国境線をめぐって国家間の紛争が絶えない理由の一端は、ここに見出すことができるように思われる。もっとも、そうした紛争が両者の生死をかけた闘争へと至るのが必然と考えるか否かは、論者の人間観・国家観により、異なる。
 どこかに引かざるをえないものの、どこにどのように引くかについては確定的な根拠がないという事態は、境界線一般にあてはまる。公と私の境界線、保護されるべきプライバシーの境界線、戦闘員と非戦闘員の境界線、国と国の境界線、国民と国民の境界線、いずれも、引かれるべき線がおのずから定まるわけではない。そのため、現在引かれている境界線にこだわりがちであることも同じである。そして、現在引かれている境界線へのこだわりは、無意識のうちに境界線の維持を自己目的化する傾向を生み出しがちである。しかし、境界線はそれ自体が目的ではない。国境や国籍が、それ自体、目的ではなかったことと同じである。
 同じことは、憲法典にもあてはまる。憲法典を変えることが自己目的であってはならないように、現在の憲法典のテクストをただ護持することが自己目的であるはずはない。

 出典:長谷部恭男『憲法とは何か (岩波新書)』(岩波書店、2006年)186−187ページ

 この話は、国境とか、プライバシーとか、国民とかの区別、つまり憲法上重要そうな話であって、「GNP1%枠にはあてはまらない」「GNP1%というラインは存在しない」という批判もできますが、あえて、これを持ち出したのは、(私自身「正しさ」を主張しているわけではないから)「枠自体が自己目的になっていて現状維持の方向になっている」という指摘にも使えるし、「動かすためには根拠が必要」という【私が設定した議論の進め方(俺様ルール)の根拠】に使えるのではないかと思ったからです…(^^;。



 F.「民主主義の危機」論


 で、「動かすためには根拠が必要」という話。

 Dで引用した部分のほか、長谷部恭男・杉田敦これが憲法だ! (朝日新書)」(朝日新聞社、2006年)から2ヶ所、合計3ヶ所引用した日記が、「著作権法違反である」とのご指摘を受けましたので、ここでは、後者の新書から1ヶ所だけ引用(いやー、親告罪でよかった…。)。


 …9条に関する世の中の一般の議論というのは、「日本語として、ただただ素直に条文を読むと、何を言ってるか」という問題にどうしても収斂しがちなんです。それではなかなか問題の本質に踏み込めない。  これは、日常の政治問題についても同じで、たとえば「郵政民営化に賛成ですか、反対ですか」と聞かれたときに、費用対効果をよくよく考える前に、なんとなく直感的に「郵便局のやつは威張っているみたいだから、どうも民営化したほうがよさそうだ」、その程度のレベルの話になりがちだと私は思うんですね。
 9条の問題は、一方で長期的な国民の生命・財産の安全にかかわるみんなの関心事ですけれども、他方で、あとでもふれますが、国家と国家の対立と協調関係は、究極的にはその国が持っている憲法原理と直結します。だから、「なんとなく憲法の条文に書いてあることを日本語として素直にどう理解しますか」といったような、あまり深く考えていない、直感的なレベルの話と結びつけないほうがいいと私は思っているんです。
 ですから、国民的な議論を巻き起こすのであれば、もっとよく考えていただきたい。「この問題は、いったい何と関連していて、仮にこの条文を動かすと、どういう帰結がもたらされ、その結果、日本のセキュリティーは全体として向上するのかしないのか」ということまで、全部含めて議論していただきたい。たとえば、9条の文言を動かしたとき、従来、内閣法制局を中心に組み立てられてきた歯止めは吹っ飛んでしまうのかしまわないのか。そのままなのであれば、条文を動かす必要はない。ふっ飛んでしまうとなると、それにかわる歯止めはどうするのか。法律で決めますというだけで、そのときどきの政治的多数派に対する歯止めになるのか。憲法上の歯止めがなくなってしまったときに、周辺諸国や同盟国との関係は、日本が国際紛争に巻き込まれる危険性は、新たに正統性を得た自衛隊が政治的発言力を増す可能性はどうなのか。
 そこまで含めて議論するのであれば、大いにやるべきだと思います。ただ、現在の日本の政治過程を見ると、はたしてそういう冷静な論議をするに適切な環境なのか。さきほども言いましたが、日本の民主主義の危機的な状況を見ると、私は懐疑的だと言わざるをえないですね。

 出典:長谷部恭男・杉田敦これが憲法だ! (朝日新書)」(朝日新聞社、2006年)80−81ページ(長谷部発言)

 引用部分は、9条の話であって、それを具体化したと思われる「GNP1%枠」という「一政策」であるから、当てはまらないと思われるかもしれませんが、(日常の政治問題である)「郵政民営化」の話も書かれていますからね…。私の根拠に使えませんか?

 もちろん、「日本の民主主義はそんなに危機的な状況ではない」と見ることもできますが、いずれにせよ、「防衛費の問題も、冷静に議論しましょう」ということは自明だと思うのですが…(^^;。



 以上が、私の立論の大要。

 長くなったので、このへんで…。次回は、先方の議論に対する疑問でも書いて、この件の紹介の終わりとしましょうかね…(^^;。

*1:昨日、これでググッたら、前回の日記が第1位ですた…(^^;。

*2:大橋洋一行政法―現代行政過程論[第二版]』345ページ(COLUM 税方式と保険方式――財源調達問題)にも、特定の分野のみの予算の増額は難しいとされている。「国の予算は、前年予算をベースにプラス○パーセント、マイナス○パーセントという形で作成される(行政学では「インクリメンタリズム」という)。歳出予算の中で福祉予算のみを増加させることは難しい。」

*3:2月9日の日記でも引用したように、GNP1%枠採用の閣議決定(三木内閣)に影響を与えた、当時の酒田道太防衛庁長官の私的諮問機関である「防衛を考える会」は、「防衛費として国民の支持を得られる限度は、GNPの1%以内が適当ではないだろうか。現在のように経済成長が鈍化しているときはもちろんのこと、順調なときでも1%を超えるとなると、国民の共感を得るのはむずかしい」としていたわけですから…。阪中友久「防衛予算決定過程の問題点」青山国際政経論集18号(1990年)62ページから、防衛を考える会『わが国の防衛を考える』(朝雲新聞社、1975年)36ページを孫引き。

*4:石川健治「前衛への衝迫と正統からの離脱」憲法問題8号(1997年)117ページ

*5:PDF文書は、こちらから。http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/simple-search?langMode=&query=%E7%80%AC%E5%B7%9D%E9%AB%98%E5%A4%AE

*6:79年度・81年度に「契約ベース」で1%を超えなかったのは、一機あたりの単価が高いF-15J・P-3Cの調達がなかったからとのこと。瀬川高央「日本の防衛費に関する研究――防衛力整備と後年度負担の変化を中心に」アジア太平洋研究(成蹊大学)31号(2006年)88ページ

*7:片山さつき「平成17年度 新防衛大綱・新中期防と防衛関係予算について」ファイナンス471号(2005年2月)49ページ(PDF文書の10ページ)にも次の記述が。「したがって、防衛関係費の全体構造を中・長期に亘って把握するためには、各年度の意思決定としての契約ベースの防衛予算に着目する必要がある。」