行政法のこれから

 月刊誌「法学教室」の2号前、もうすぐ3号前になろうとする記事ですが、2月号(329号)から、「エンジョイ!行政法」の最終回、「行政法のこれから」(49−67頁)を、一部抜書き。

 ブログを書くにしても、いろいろ文献読まないといけないし、それだけでは、どこに書いてあったのか忘れたり、すぐには文章書けないから、「メモ」「抜書き」、「整理」というような作業をしないといけないなあと、たまたま思ったので…。

 この連載、磯部力・櫻井敬子・神橋一彦という行政法の教授がレギュラーで、ゲストを原則1人招いての座談会なわけですが、今回のゲストは、大学と裁判所を2往復した珍しいキャリアの持ち主、元最高裁判事園部逸夫氏です。

 検索してみると、「ぜひ御一読を」とありますしね(^^;。




 というわけで、以下、「私が興味を持ったところ」を抜書きします。

 発言内容が日本語として不明瞭なところもあるかもしれませんが、修正せず、ほぼ抜書き。(´・ω・`)

 全文を読んでいない方には、抜書きだけで、どこまで意図(?)が伝わるかどうか…。

 文脈を説明せずに抜書きしたため、私がなぜそこを抜書きしたのかとか、私の意図(?)とは違うものを感じられるかもしれないし…汗。

 そういう意味では、「抜書きだけしたものをネット上にアップする意義があるのか」、「そういう基本的な作業は、自分のパソコンの中だけでやれ」、「もっと短く要領よくまとめて、整理しろ。」ということにもなるのでしょうが・・・。(´・ω・`)

 また、「このことは別の文献でも言及あっただろ」とか「この発言については批判あるだろ」ということもあるでしょうが、関連文献には触れません(触れられません)…汗。

 括弧に、ページ数と発言者名(敬称略)を。発言者は、断りなければ、園部氏です(^^;。



・「日本の行政法の基本は戦前戦後を通じて、基本的には行政官僚のための行政法という位置づけ」(51頁)

・〔日本の学者というのは外国の法律の研究ばかりしているが、これは〕「比較行政法もさることながら、旧制高校が外国語履修でクラス分けをしていた時代の、いわば教養エリート主義と後進国日本の明治以来の外国法教育が尾を引いている部分がある」(52頁)

・「従来の講壇行政法教育とロースクール教育がどのように調整されるかということは非常に興味のあるところです。」(53頁)

・「学者の方が〔最高裁の〕調査官になれないだろうかとか、調査官の補助をできないだろうかと言ってこられるのですが、調査官は独り立ちで判決が書けないと最高裁の裁判官の補助ができない」ので、「学者が外から入り込むということは到底できません。」(54頁)

・「一般に日本の裁判官は、民事法と刑事法は知っているとしても、行政法を知っている人は少ないといっても間違いではない」(55頁、磯部)

・〔通常の裁判所が行政事件を担当するということは、それなりに裁判官も行政法についての勉強が必要であるが、そのためには〕「東京地裁とか大阪地裁のような所である程度専門部的、あるいは集中部といって、それに集中させる」必要がある。しかし、そういうやり方は「大きな裁判所でないとできない」(56頁)

・「その行政について経験も知識もない裁判官は、これは行政庁の言うことが正しいのではないかと。官庁側いわゆる官僚のための行政法を勉強しているわけですから、それにはとても裁判所は簡単には太刀打ちできない。裁判所は基本的に民事、刑事をするためにあるわけで、たくさんの民事、刑事の仕事の合間に行政事件が挟まっているということなので、学者の諸先生が叱咤激励しても走れないのです。」(57頁)

・「裁判長が『園部さん、裁判所の合議というのは、大学の研究室と違うのだから、腰だめでやらなければいけません』と言われた」。「要するに法律的常識、法律的解決のための基本的な筋だけわかっていれば、どんな事件でもわかるはずだと。民事法のすべてのことについて、学説から判例から全部知っているなどということはありません。ですから、出てきた事件について自分の持っている知識を出して合議に参加するという意味の腰だめです。」「しかし、行政事件だけは腰だめでやると、行政庁の言うことに傾くことになりはしないか。行政に覆い被さるようなすごい理屈や理念を持っている裁判官はいないのですから。」(57頁)

・「新任の判事補さんが、さあ勉強しようと思って裁判所の書棚から取った行政法の教科書本が、はたして役になったかどうか。おそらく読んでもほとんど役に立たないというか、よく分からないものであった可能性が高いような気がします。」(57頁、磯部)

・「ある程度行政裁判をした人は、もちろん勉強もするでしょうから、事件を通じてかなり自信が付くのです。そして、ある程度行政事件について発言ができる。自信を持ち始めた裁判官が割合元気に発言していく。自分が言っていることは、基本的に決して間違っていないのだと言う自信がないと、何か言っても、何を言っているのだと言う感じで周りから見られると、どうしても引いてしまうわけです。」(58頁)。「ですから、その人のキャリアとか、知識がある程度裁判所の中で評価されないと、あまり突飛なことは言えないということがありますね。」(59頁)。

・「最近、最高裁の判決は元気ですからね。元気すぎて、ちょっとやりすぎという感じもあります。」(59頁、櫻井。神橋も同様の発言)。
・「最近は、地裁判決が出ると、それを高裁が全否定する判決を出す、という傾向があります。・・・。最近の高裁判決には、結論が先に立っているのではないかという印象があって、何かぱっとしない感じがあります。」(59頁、櫻井)
・「ことに東京の行政部から上がっていくような事件は、東京の行政部の『あの裁判官は』というレッテルを貼られるとまた困るのです。評判が出ると高裁としては、はっきり受け止めなければいけない。高裁の人たちは日本の裁判所の中枢であり良心として身構えていますから。一種の使命感を持っているところがあります。」「世代が交代すればまた別でしょうね。」(59頁)

・「実務は目先のことをどんどん解決していかなければならないので、毎日終われて仕事をしなければいけない。学説を何年もかかって、深く掘り下げていくということで、実務家が学説を読んでも、基本的な行政法哲学としては受け止められるが、実際の事務処理のためにはすぐには役に立たない。例えば、…全部調べないと公益判断ができないのかというとそういうわけにもいかないので、結局事件に現れた資料のなかから公益らしきものを引っ張りだしてくるという一種のリアリズムで、実際に起こった事件から、いろいろな者を双方の主張から取り出して片付ける。裁判は常にそうなのです。」(60頁)

・「日本の場合は、法律問題も事実問題も全部行政庁が事務的にまず判断してしまい、それから裁判所に事件が上げられるということなのです。しかも行政庁の人たちはアメリカに比べると、よくできた人が多いと思います。ですから、そういう人たちの議論を以下にひっくり返そうと思っても、そう簡単にはひっくり返せない。それが習い性となって、裁判所の役割が問われるのです。」(60頁)

・「行政法学の方法論に対する研究は、かなり意味があるとは思います。」(62頁)

・「法学部で教えるのは若干講壇行政法的な昔の伝統を継ぐ部分にはなると思います。しかし、それだけではロースクールの教科書にはなりません。ロースクールの教科書は法学部の教科書になるかというと、そんな実務的に分析したようなものを一般の法学部の学生が読んでもあまり意味がないだろうと思います。」(62頁)

・「経験的にいえば、行政法は、どうも、民事法や刑事法とは質的に異なるようです。行政法では必ずといっていいほど裁量問題が出てきますが、法律科目でありながら政策的な観点あるいは政治的な観点が要求されますし、立法論も視野にいれて法律解釈をしたりすることが少なくなく、通常の法律解釈とは勝手が大分違うようです。」(62頁、櫻井)

・「行政訴訟の場合、原告側、行政側、判決をそれぞれ較べると、一般論として言うならば、原告の法律論のレベルが高くない。…上告理由は大抵、情熱はあるけれども素朴にすぎるものが多い。これに対して、最高裁判決のほうは老獪で一段上に立ったような法律論が展開されていることが少なくありません。(改行)
 もっとも、最近は行政側の主張も洗練されてないというか、一体いつの話だと思うような議論も延々と展開していたりするものもあります。…。その原因は、おそらく…『行政法の専門性』…。ここで『専門性』というのは、単に知識の問題ではなく、官僚機構の中に漂っている奥義というか、空気というのか、官僚がどのような思考回路でどのような行動特性を有しているか、そして組織としてどのような動きをし、そういう独特の世界でさまざまな法制度を作り、様々な思惑をもって行政を運営しているというようなあたりについて、多少でも感度がないと、正面突破というか、額面どおりの法律論では、なかなか難しいのではないかという感じがあります。…。(改行)
 裁判官のほうは、最近は比較的斬新な法律論を展開する裁判官が出てきているのですが、他方で、国側の代理人、特に訟務検事の法律論がイマイチなのが気になります。その原因は前例踏襲主義だからということらしいのですが、行政法もそれなりに新しくなっているので、あまりにも昔ながらの法律論をとうとうと展開されると、裁判官も面食らうでしょうね。」(63頁、櫻井)

・「学説と実務の乖離というのは、理屈の問題ではなくて、学者と裁判官で何か仕事の場の空気が違うからということもあるからなのだろうか」(64頁、神橋)

・「日本のような官僚国家はフランスの影響を受けたほうが良かったとさえ思うほどです。…。私はアメリカの制度を入れるのなら行政委員会も含めて、もっときちんとしたシステムで入れるべきだったのに、下のほうを削ってしまって、上のほうはアメリカの制度で司法裁判所で判断する。大体行政官僚と司法官僚というのは、同じように育てられてはいますが、若干お互いに張り合っているところがあって、なぜ自分たちがやったことを司法官僚が全部取り消すのだ、おかしいではないかという話になるのです。これが行政裁判でしたら、行政裁判所に司法官僚も入っていき、行政官僚も入っていって、お互いにつめていくというやり方がいいのです。」(66頁)

・「今は次々行政実体法が制定されたり、行政訴訟法関係の改正があったり、民営化の議論が次々出てきて、行政法の焦点が定まらなくなってきた。これは勉強する側も、行政法というのは何なのということで、なかなかエンジョイできないわけです。これはやはりお三方のような最前線にいる人が思い切って行政法のあるべき姿を考えていただかないといけないのです、それは決して伝統的な行政法に反するとか、そんな意味ではなくて、新しい時代の、新しい行政法を考えていかなければいけないのではないか。それが私の感想です。」(66−67頁)



ど〜して線を引いているのに見落とすのかな的追記(21:57)

・「ドイツは戦前のナチスの経験が戦後ずっとどのように国民に受け止められてきたかということを今でも研究しています。日本の場合は、敗戦による国の体制の方向転換で一応のケリをつけて、いよいよ日本の新しい行政法が始まるという。16歳で防衛召集を受けて陸軍二等兵として台北郊外の山中でアメリカ軍の上陸に備えていた私の経験からすれば、ずいぶんあっさり変わるものだなと思いましたね。」(51頁)



 他にもあったけれど、読み返しても出ていない…。別の回だったのかな…。物忘れが激しくて…(´・ω・`)