「切り札」ではないかもしれない人権

2月17日の日記4月3日の日記に続く第三弾。三部作ついに簡潔完結。(´・ω・`)




 もともと、みくCのとあるコミュ*1での質問が発端となって、このエントリーにつながったわけです…。



 さて、そもそも「切り札」とは何か?

 “大辞林”によれば、

[1] トランプ遊びで、他の札を全部負かす強い力をもつと決められた札。

[2] とっておきの、他を圧倒し得る人やもの。最後に出す最も強力な手段。

 とされていますが、なんとなく、[1]と思ってしまう。極端に言えば、「これを出せば勝つ」。

 こういうイメージからすれば、「『切り札』としての人権」というのは、それに該当すれば、「必ず守られる。」って感じに思ってしまう。
 ところが、[1]であっても、そこまで極端ではない、であるとか、[2]の「最も強力な手段」であるけれども、「手持ちの武器として最も強力な手段かもしれないけれど、覆るかもしれない」というものだとすると、「必ずしも守られるとは限られない。」ということになる。

 さて、近時、「『切り札」としての人権」を声高に主張される、長谷部理論ではどうか?



 簡単に言うと、従来憲法学で「基本的人権」と考えられてきた領域は、人権ごとではなく、内容ごと、「切り札としての人権」と「公共の福祉に基づく権利」*2に二分される。

 「公共の福祉による制約を受けるかどうか」という視点で見れば、従来の憲法学では、「基本的人権といえども、原則として、公共の福祉による制約を受ける」ということでしたが、長谷部説によれば、「切り札としての人権は、公共の福祉による制約を受けない」というわけです。

 表面的に見れば、「切り札としての人権」に該当すれば、従来の憲法学に比べて、強い保障を及ぼそうとしているように見えます。

 はたしてそうなのか?



 この点について、長谷部恭男「『公共の福祉』と『切り札』としての人権」『憲法の理性』(東京大学出版会、2006年)108頁からの引用。

「従来の通説的枠組みで捉えた場合と、拙論の枠組みで捉えた場合とで、具体の結論に大きな差異が生ずることはないと思われる。具体の結論は、具体の違憲審査基準によって決するところが大きく、拙論は、この点で従来の法理の大規模な変革を主張するものではないからである。」

 とのこと。次のページには、「思考上・心理上のインパクトを与えること」が狙いの1つなんてことも書かれている…。



 このように捉える事について、説得力があるのか?

 以下の点については、渡辺康行「長谷部恭男『憲法学のフロンティア』」長谷部恭男編『憲法本41―改憲・護憲をいうまえに学んでおくべきこと (Best Selection)』(平凡社、2001年)154頁以下に依拠。

 具体例を1つ。プライバシー権について。

 長谷部説は、4月3日の日記で紹介したように、公私二分論に立ちます。

 それを前提とした上で、「具体的にどこまでが私的領域であり、プライヴァシー権によって保護すべき情報の範囲かは、社会の慣習や通念によって決まる部分が大きい。」「プライヴァシーの定義や機能から論理的・一義的に導き出されるわけではないため、国家機関の有権解釈や決定に依存せざるをえない状況は広汎に生ずる」
 としているため、前提となる「公私二分」についても、「プライバシー権によって保護すべき情報の範囲」も、「国家の有権解釈や決定に依存せざるをえない」というわけです…。

 しかも、切り札としての人権としての「プライバシー権本体」と「それ以外の領域に属する個人情報をコントロールをも保障する権利」を区別するんですよね…。

 長谷部恭男・杉田敦これが憲法だ! (朝日新書)』(朝日新書、2006年)143頁によると、具体的な公私の切り分けの弊害は、個別の切り分けの改善で対応するそうなので、個別の事案について、とくに国家の有権解釈・決定が出たときには、その理論的妥当性のほかに、自らの切り分けの仕方について説明していただきたいものです*3

*1:みくCに招待しますぜ>みくCを見れないリアルの知り合い。私の日記を見たい方、マイミクになりませんか?>私のはてだの愛読者の方でみくC加入の方で気のあう方。

*2:「生来の人権の一環として、社会全体の利益に反するとしても保障されねばならない権利」と「社会全体の利益を理由として保障されており、そのため、ときには同じ社会的利益の効果的実現のために、あるいはより重要な社会的利益のために制約されるべき権利」。引用は、長谷部恭男『憲法(第三版)』(新世社、2004年)104頁。最新版は、第四版(2008年)です…。(´・ω・`)

*3:要するに、「おまえの抽象論を評価する上で、もっと個別事案について言及してくれ」と…。