比べることができるもの

 2月17日の日記で、
 「あと2つ(「比較可能な価値」・「切り札ではないかもしれない『切り札』の人権」)なんて書こうかと思っています…(^^;。」なんて書きましたが、お待たせしました。前者を書いてみようかと…(^^;。

 期間が開いたからといって、「ちゃんとしたもの」を書けるわけではなくorz。

 「ちゃんとしたもの」を書こうとすれば、外国語文献も含めてたくさん論文読んで…(´・ω・`)

 あくまで、直感。




 毛利透教授による的確な要約を引用すると*1、「長谷部恭男は立憲主義を、多様な価値観をもつ人間の共存を可能にするために生活空間を公私に分け、私的領域での各人の自由を確保し、かつそれにより公的領域での公益をめぐる冷静な議論と決定を可能にする政治の仕組みであると説明する」*2

 今回の話は、この要約で言えば「多様な価値観」の部分。それを前提とした、公私二分論には立ち入らない(笑)。

 より詳細な部分を、長谷部教授の著書から引用。

 「人が以下に生きるべきか、世界の意味、人生の意味は何かといった、各人の生の究極にある価値は多様でありしかも相互に比較不能であることを、リベラル・デモクラシーは前提とする。生の究極の価値が何かについて唯一の正解がすでに確定しているのであれば、あらゆる人はそれに従い、できる限りそれに忠実に生きるべきであろう。しかし、こうした究極的価値は多様であり、人によって考え方が異なる。そして、異なる価値はしばしば相互に比較不能である。」*3

 その具体例として、「ヴェニスで一生暮らすこと」と「財産や名声」、「研究者として一生をローマ法の研究に捧げることと、政治家として一生を向上に捧げること」などが比較不能であることが紹介されている*4



 もっとも、すべてのものが、比較不能なわけではない。「しばしば」ですし(^^;。共通の価値尺度があれば、比較不能なわけではない。

 「ローマ法研究を究極の目的と決めた以上、その枠内では、よりよい業績を挙げる生の方が望ましいであろう。国際的に評価される研究業績を公表する生は、他の研究者の業績紹介に終わる生より優れている。」*5

 試験でいえば、点数が高いほうが望ましいということになるのでしょうか…。
 このような留保は、「競争社会」からして、妥当な気がしますが、比較不能なのなら、徹底して「あらゆることについて共通の価値尺度はない」と言って欲しい希ガス。無理か…。(´・ω・`)



 まず、引っかかるのは、「生の方が望ましい」と語っていること。誰かが評価するんだ…。

 「望ましい」って、結局、「究極の目的と決めた以上、一番目指してがんがれ」ってことですね…*6。どこまで強く読み込むかによりますが…。(追記:「種デス」ではないですね…。こういうところで、アニメを知らないことを露呈する…。(´・ω・`))

 年々厳しくなる、立ち止まったらアウトの、ますます走り続けなければならない研究環境で、「国際的に評価される研究業績を公表することができるようがんがれ」ということでしょうね。

 「その生は望ましくない」となっても、人間の優劣にまではつながらないんでしょうね…。「あの学者は、バカだ」とは言っても…。



 いずれにせよ、「比較可能なもの」と「比較不能なもの」がある。それを区別する(二分する)「共通の価値尺度」がどのように決まるのか? そして、具体的に、どのようなものが「比較不能」なのか?

 「ある人の生き方や考え方が『間違っている』という理由に基づいて国家が行動したか否か、つまりその人の生きる意味を包括的に定める価値選択の領域に介入するような仕方で国家が行動したか否かは、したがって決定的な論点である。」*7

 なんていう文章を読んでも、「間違っている」が括弧つけて書かれていることもあり、よく分からないのです。(´・ω・`)

*1:せめて、該当箇所である長谷部恭男『憲法とは何か (岩波新書)』(岩波書店、2006年)8−12頁を、自分の言葉で要約しろってね(笑)。しかし、論文紹介という意味「も」あって、あえて…(笑)。

*2:毛利透「市民的自由は憲法学の基礎概念か」長谷部恭男ほか編『岩波講座 憲法〈1〉立憲主義の哲学的問題地平』(岩波書店、2007年)6頁。

*3:長谷部恭男『憲法学のフロンティア』(岩波書店、1999年)1頁(初出も1999年)。

*4:同書2頁。

*5:同書2頁。

*6:ふと、(比較不能という歯止めはないものの)種デスの49話か50話のラウ・ル・クルーゼの発言を思い出したが、再現不能。(´・ω・`) こういうことは、“アニオタ法学部生の日常”のronnorさんにお任せ(^_-)-☆。

*7:同書9頁。なお、16頁の注記5も参照。