国籍とライフ・セーバー

 書く書くといって、2週間ほど書いていなかった罠。(´・ω・`)




 今日は、長谷部恭男『憲法の理性』(東京大学出版会、2006年)の第8章「『外国人の人権』に関する覚書――普遍性と特殊性の間」(初出2001年)や同『Interactive憲法 (法学教室Library)』(有斐閣、2006年)の第4章「外国人の人権」を読んだ感想というか、わからないところ。

 みくCの某コミュの書き込みをきっかけに、ぱらぱらと本をめくっていたら、再度読んでしまったわけです。

 そして、最初読んだときと同じ疑問が浮かんだのです。

 というわけで、別にきちんと調べたわけではなく、あくまで、その文章を読んだ際の感想(わからないところ)をメモ書き程度に。

 噂では、日本では、論文の批判というのは、親しい人くらいしかできないらしいです。

 しかし、ブログというのは、まあ、きちんと調べなくとも自分の思ったことが自由に書けるわけですし、どーせ、負け(´・ω・`)の遠吠えです。

 今のところ、あと2つ(「比較可能な価値」・「切り札ではないかもしれない『切り札』の人権」)なんて書こうかと思っています…(^^;。



 では、本題。

 人である以上、普遍的に認められているはずの権利が、国籍を基準に保障の有無・程度が異なるのか、その正当化理由は何か?

 この点については、長谷部教授は、功利主義哲学者のロバート・グッデン教授*1に依拠し調整問題状況で説明します。

 ここは引用したほうが、いいですね(^^;。
 
 『憲法の理性』(東京大学出版会、2006年)124頁から引用。

 我々が同胞市民に対して負っている権利保障の義務は、そもそもすべての人がすべての人に対して負っている普遍的義務に由来するもので、本来、特定のメンバー間について認められるものではないが、ただ、その効果的な実現のために、特に同国人の間で便宜的に認められるものである。本来は普遍的に妥当する義務であるが、それをすべての人がすべての人に対して遂行することとした方が、より効果的に義務が遂行でき、したがって権利も効果的に実現する状況は少なくない。たとえ普遍的な義務であっても、ある人がその義務を果たしてしまえば、他の人が同じ義務を遂行しようとしてももはや無駄であり、かといって、誰か他の人がどうせ果たすであろうという理由で放置していると、誰もなすべき義務を果たさないという状況である。

 で、この具体例として、ライフ・セーバーを挙げて、国籍も似た機能を果たすと考えておられる。同書124−125頁からの引用。

 たとえば、海水浴場で誰かが溺れそうになっているとき、本来は、その場にいるすべての人に救助義務があるはずだが、すべての人が一斉に救助に赴くと無用の混乱が生じ、かえって多くの人命が失われるおそれさえある。かといって、誰かが助ければそれで済むことだとすべての人が考えるならば、誰も助けに行かないおそれもある。こうした場合、予め指定されたライフ・セーバーが救助に赴くこととすることで効果的に救助活動を遂行することができる。

 (中略)

 国籍も似た機能を果たすと考えることができる。

 (中略)  ライフ・セーバーの比喩を延長して言えば、広大な海水浴場を何人かのライフ・セーバーが分担しているとき、分担する仕方として、それぞれが特定の集団を受け持つこととしている状況と似ている。

 というわけで、いわゆる「外国人の人権」といわれているものを、「人権」の問題ではなく、「調整問題」で対応するわけですね。その当否はさておき。

 で、よく分からないというか、直感なのだけれど、

 ライフ・セーバーって、ある領域で「誰かが溺れそうになっているとき」助けに行く者ではないのか?
国籍の如何に問わず。



 という疑問。



 たしかに、同頁注12において、

 ライフ・セーバーの分担の仕方として、こうした属人的な分担が効果的であるか否かは疑わしい。それぞれが特定の区域を担当し、当該区域で溺れそうになった人がいる場合には、その人の属性にかかわらず当該区域担当者が救助するという仕方のほうが効果的であろう。

 とされています。

 しかし、上記の原則は、属人的。というわけで、私の直感の属地的とは異なるです。

 さらに、『Interactive憲法 (法学教室Library)』の特に36−38頁を読むと、属地的な分担の話せずに、地方参政権について言及しているわけだから、素直に読むと、地方参政権については、属人的な分担なんだろうなあ…。

 まあ、ライフ・セーバーの比喩と国籍との対応関係が私の直感とは異なるにせよ、地方参政権は調整問題の原則どおり、属人的な分担をされるんでしょうね…。(´・ω・`)

*1:もちろん原典は読んでいません。(´・ω・`)