「法律の留保」・その5

 昨日の日記の続きです。今、書いている話は、行政法の話です。その上位規範である憲法の条文が出てきても、一応、憲法の話ではありません。

 せっかくですので、ここで言っておきますと、法律をメインに考えて、それを3つに分類すると、

1.民事法
2.刑事法
3.行政法

 があります。その行政法の話です。この3つにも重なる部分がありまして、今日の話は、特に、刑事法とも、密接な関係がある気がします・・・(^^;。



「法律の留保」の諸学説の若干の紹介

 昨日と重複しますが、まず、定義部分の紹介。

1.侵害留保
 国民の権利を奪ったり、義務を課したりする場合には、事前の法律が必要である。
2.全部留保説
 行政活動全般について、事前の法律が必要である。
3.権力留保説
 権力的な行政活動、すなわち、国民の同意の有無を問わず、行政が一方的に国民の権利義務を変動させる場合には、事前の法律が必要である。
4.本質性理論
 (国政の?)本質的な決定は議会が行うべきであり、それを他の機関に委ねてはならない。

 もともとは、(法律の法規創造力の「法規」と同様)「権利・義務」よりは狭く、租税と刑罰の場合に限られていたといわれているそうな*1。だから、日本国憲法にも、「あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。」(84条)*2、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」(31条)*3と規定されている。

 そして、戦前の話ですが、「権利・義務」と広く解されるようになった。

 戦後においても、「侵害」が明確であること、例えば、内閣法11条には、(内閣が定める)「政令には、法律の委任がなければ、義務を課し、又は権利を制限する規定を設けることができない。」と規定されているなど、実務も侵害留保説にたっているなどと主張されました。

 しかし、侵害留保説は、侵害領域以外については、事前の法律が必要ないという意味で、それ以外の領域について君主の権力の「自由」な行使を正当化するものであること、それは、国民主権の理念からして妥当ではないこと、さらには、今日の実務は、侵害領域のみを法律で制定しているわけではないことなどを理由に、今日では、この見解をとる論者はいないといっても過言ではありません。

 ということで、侵害領域+αの、αの部分が、どの程度のものかが、争われていると・・・(^^;。


  • 全部留保説

 根拠・範囲ともに、論者によってまちまちですが、行政活動全般について、事前に、法律が必要だと。

 しかし、これでは、時々刻々と変化する社会に対して対処にする必要もある行政活動について、事前にそれを予測して法律を制定することは困難であり、逆に、法律がないから何もしませんということを正当化してしまうことになるであろうし、仮に法律を全部制定しても、概括的な授権規定を置かざるを得なくなり、「法律の留保」の意義を希薄化してしまうのではないかという批判を受け、この見解を支持する学説もほとんど存在しない*4


  • 権力留保説

 公務員試験的には、有力説なのでしょうか・・・。まあ、有力説の1つではありますね。

 侵害的であっても非権力的な行政活動には、法律の根拠は必要ではなくなってしまって妥当ではないという批判とか、そういう出題例もありますが、今では、その辺は批判を回避する見解になっていますよね。

 より根本的な批判は、(受験用テキストにはあまり書かれていないと思いますが)法律が権力を生み出すのに、その権力を行政が行使するためには法律が必要だというのは、トートロジー*5(同義反復、循環論法)だという、おなじみの形式論的な批判が存在する*6

 まあ、何となくですが、憲法論的に見れば、憲法が直接行政権にその権力を付与したとか、ドイツの別の見解を用いるとか、別の国の議論を持ち出すと正当化できるかもしれません・・・。



 以上の学説は、何となくですが、「一定の行政活動の領域ごと」、法律の根拠が必要かどうかを議論しているように見えます。次の学説は、チョット、視点が違うのかもしれません。

  • 本質性理論

 ドイツにおいて、1970年代に確立した判例・通説です。わが国に「本格的に」紹介したのが、大橋洋一「法律の留保学説の現代的課題」国家学会雑誌98巻3・4号(1985年)*7でしょうか・・・。

 この見解は、「侵害領域」を機能的に拡張して、制裁的な氏名公表など国民に重大な不利益を及ぼしうるものについても法律の根拠を必要と考え、また、行政機関の基本的枠組み(制度的留保理論*8)、基本的な政策・計画、重要な補助金等についても法律の根拠を必要だと考えます。

 この見解は、法律の制定手続(審議・公開)を重視しつつ、議会が自ら決定しなければならない領域を(裁判所によって)確定するものです。それを、ドイツの憲法裁判所が、自ら決定していないと違憲判決を下す・・・。

 そういうわけで、従来型の「一定の行政活動領域ごとの」法律の要否ではなく、従来の「侵害領域」を前提に、議会が自ら決定しなければならない領域を、性質ごと判断していくわけです。また、従来であれば、委任立法の限界(規律密度の問題)、(古典的には租税と刑罰、後に表現の自由で議論されてきた)明確性の要請、行政機関の法定化、基本的な政策・計画の法定化などを「法律の留保」論で統一的・体系的に説明しようというわけです。

 これに対しては、もちろん批判はあります。「何が本質的なのかが不明確だ」というお決まりの批判のほか、より根本的は批判(?)として、横須賀市がこういう指針で条例化しているそうだけど、そういうふうに法定化していない国や地方公共団体の法律・条例を、日本の裁判所が、違憲・違法って判断するのか?・・・*9。(´・ω・`)



 本質性理論に関連する話も含めて、もうチョット引っ張ります。m(_ _)m

*1:詳しくは知りません。(´・ω・`)

*2:30条・83条も参照。

*3:「法律の定める手続」は「法律の定める方法」というように考えて、法律の定める要件(どういう行為が刑罰の対象になるのか?)で、しかも法律の定める手続でしか処罰されないと考える。13条や33〜40条も参照かな・・・(^^;。

*4:ただし、後に述べる、「法律」の意味の多様性を考えると、別次元で働く余地は否定できないかもしれない。参照、芝池義一「行政法理論の回顧と展望」日本公法学会編『公法研究65号』(有斐閣、2003年)。そういえば、いくつかの論文を平板で読むと、宮沢俊義説が全部留保説、芦部信喜説が権力留保説、高橋和之説が全部留保説・・・というふうになるので、その紹介をされている先生の立ち位置も考慮に入れないと、大変な誤解を生むことになったりしないでもない・・・。(´・ω・`)

*5:(´・ω・`)トトロ

*6:しかし、形式論ぽく見えるけれども、結構、実質的にも説得力があったりするわけですが・・・。

*7:同論文は、大橋洋一現代行政の行為形式論 (行政法研究双書)』(弘文堂、1993年)にそのまま所収されている修士論文の公表バージョンです。なお、教育法に特化したものとして、それ以前に市川須美子「西ドイツにおける教育憲法裁判の展開――教育制度改革と憲法裁判所」法律時報54巻10号(1982年)、大橋論文の公表後には、例えば、栗城壽夫「西ドイツ ドイツの権力分立――権力分立の機能的理解」比較法学会編『比較法研究52号』(有斐閣、1990年)で軽く触れられていて、その栗城論文と後述の批判を紹介しているのが、小林孝輔・芹沢斉編『基本法コンメンタール憲法 (別冊法学セミナー―基本法コンメンタール (No.149))[第四版]』(日本評論社、1997年)・・・。(´・ω・`)。19:21追記:『基本法コンメンタール』221頁(41条、西浦公執筆)で紹介されている文献は、栗城壽夫「立法と司法」法学教室68号(1986年)でした。m(_ _)m

*8:この点について、くわしくは、大橋洋一「制度的留保理論の構造分析」金子宏先生古稀記念論文集『公法学の法と政策―金子宏先生古稀祝賀〈下巻〉』(有斐閣、2000年)。これに対する批判については、(´・ω・`)パス。

*9:塩野宏行政法〈1〉行政法総論[第四版]』(有斐閣、2005年)71頁から引用すると、本質性理論の「問題は各行政領域ごとにその本質的決定事項の範囲が画されていくべきものであって(・・・・・・)この役割は、ドイツでは憲法裁判所が担っているのである。」(注(7))、「法律の留保論争は、わが国の場合、学説と実務の乖離が甚だしい。しかも、この乖離が裁判所の判決によって埋められるという可能性が乏しい点に、この論争の特色がある。」(注(8))。後者の引用から推測すると、どの立場でも・・・( ´-ω-`)フーム。