パターナリスティックな介入?・その1
昨日、複数のブログのやり取りを見て、「パターナリズム」「パターナリスティックな介入」という言葉を思い出した。今日は、その話を展開する余裕はありません。
例えば、「シートベルトをしない権利」が人権に含まれるとしても、法律によって、「公共の福祉」による制約を受け、「シートベルト着用を義務づける」ことは可能であると仮定しましょう。しかし、そういう規制が可能(合憲)であるとして、何ゆえ、国家(官僚?)は義務づけようとするのであろうか?また、人権と主張することの意義は何なのでしょうね。
など、ということを思ったブログは次のもの。
- ダメオタ官僚日記
http://d.hatena.ne.jp/pogemuta/20060103#1136301171
http://d.hatena.ne.jp/pogemuta/20060105
http://d.hatena.ne.jp/pogemuta/20060106
- BewaadInstitute@Kasumigasek
http://bewaad.com/20060104.html#p02
http://bewaad.com/20060106.html#p01
- 法令データ検索日誌
http://d.hatena.ne.jp/washita/20060105#p1
- H-Yamaguchi.net
http://www.h-yamaguchi.net/2006/01/post_e39e.html
このエントリーには、直接は関係ないが、例えば、公務員の人権が弱くて、規制されやすい、だから、もっと権利性を強めようとか、審査基準を厳しくするとか、それらについての根拠をより説得的にしようという話が憲法学の主流であろう。
しかし、その反面、会社であれば、懲戒免職処分になることが当たり前の行為をしても、公務員であれば懲戒免職にならないということもよくある話。
生活保護の理念と現実との関係もそうなのかもしれない・・・*1。
*1:その現実をネット上で指摘しているブログとして、“自治体政策法務研究室<Blog>”があります。その中の、昨年8月20日のエントリーは、特に参考になります。しかし、トラックバックは、先方のブログ運営の方針上、したくてもできませんねぇ〜。( ´-ω-`)ウーム。