チャタレイ事件・その2
ずいぶん日が経ってしまいましたが、23日の日記の続きで、チャタレイ事件の最高裁大法廷判決をとりあげます。当初、こっちの方向に入るつもりはなかったのですが・・・(^^;。
まず条文を読む(ただし、現行法)
(わいせつ物頒布等)
第百七十五条 わいせつな文書、図画その他の物を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役又は二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処する。販売の目的でこれらの物を所持した者も、同様とする。
行政書士・法学検定・公務員試験レベルまで(?)
憲法の問題としては、この判例は、ほとんど知らなくていいでしょ。(´・(ェ)・`)
知っておくとしたら、
- (事案を知らずとも)チャタレイ事件において、刑法175条のわいせつの定義を示した。
- (条文を読まなくても)刑法175条による表現の自由の制約は、合憲。
- ちょっとレベルを上げて、「わいせつ」とは、「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」。
- さらにちょっとレベルを上げると、その後の「悪徳の栄え」事件で、わいせつ性は文書全体との関係で判断すべきとし、さらに、「四畳半襖の下張」事件 *1において、さらにその基準を精緻化して、・・・(´・ω・`)
という具合に覚えておけばいいのでしょうか・・・(^^; *2。
事件の概要
小山書店の社長A1*3は、D・H・ロレンスの著作『チャタレイ夫人の恋人』を翻訳出版するために、文学者であり著述家であるA2(小山整 氏)に翻訳を依頼した。その後、A1は、上下2巻に分冊して、出版・販売した*4。A1・A2は、同訳本には12箇所にわたって、わいせつな表現があり、共謀して販売した行為が刑法175条の猥褻物頒布罪に該当するとして起訴された。
最高裁判決要旨の目次
判決文自体をみる前に、判決要旨の目次を引用しましょう。引用元は、前回と異なり、学部生のレジュメや受験用テキストで、判旨の要約がそのまま(?)引用される、阪本昌成「58事件 わいせつ文書の頒布禁止と表現の自由――チャタレイ事件」芦部信喜・高橋和之・長谷部恭男『憲法判例百選〈1〉 (別冊ジュリスト (No.154))[第四版]』(有斐閣、2000年)118頁から(笑)。
この目次にしたがって、判決文を引用していきましょう。
1.わいせつ三要件
・・・・・・要するに判例によれば、猥褻文書たるためには、羞恥心を害することと性欲の興奮、刺戟を来すことと善良な性的道義観念に反することが要求される。
およそ人間が人種、風土、歴史、文明の程度の差にかかわらず羞恥感情を有することは、人間を動物と区別するところの本質的特徴の一つである。羞恥は同情および畏敬とともに人間の具備する最も本源的な感情である。人間は自分と同等なものに対し同情の感情を、人間より崇高なものに対し畏敬の感情をもつごとく、自分の中にある低級なものに対し羞恥の感情をもつ。これらの感情は普遍的な道徳の基礎を形成するものである。
羞恥感情の存在は性欲について顕著である。性欲はそれ自体として悪ではなく、種族の保存すなわち家族および人類社会の存続発展のために人間が備えている本能である。しかしそれは人間が他の動物と共通にもつているところの、人間の自然的面である。従つて人間の中に存する精神的面即ち人間の品位がこれに対し反撥を感ずる。これすなわち羞恥感情である。この感情は動物には認められない。これは精神的に未発達かあるいは病的な個々の人聞または特定の社会において缺けていたり稀薄であつたりする場合があるが、しかし人類一般として見れば疑いなく存在する。例えば未開社会においてすらも性器を全く露出しているような風習はきわめて稀れであり、また公然と性行為を実行したりするようなことはないのである。要するに人間に関する限り、性行為の非公然性は、人間性に由来するところの羞恥感情の当然の発露である。かような羞恥感情は尊重されなければならず、従つてこれを偽善として排斥することは人間性に反する。なお羞恥感情の存在が理性と相俟つて制御の困難な人間の性生活を放恣に陥らないように制限し、どのような未開社会においても存在するところの、性に関する道徳と秩序の維持に貢献しているのである。
この部分を拙くまとめると*6、
- 猥褻文書の定義:羞恥心を害することと性欲の興奮、刺戟を来すことと善良な性的道義観念に反すること
- その根拠①:人間と動物の区別=羞恥感情(普遍的道徳の基礎を形成)
- その根拠②:羞恥感情の顕著な例の性欲=人間の備える本能であるが、性行為の非公然性は羞恥感情を有する人間性に由来
- その根拠③:性行為の非公然性は、性に関する道徳と秩序の維持に貢献するが、猥褻文書は、その道徳や秩序の無視を誘発する危険性がある。(12月12日追記:厳密に言えば、危険性の記述は、刑法175条の保護法益のところの部分ですねorz。)
2.刑法175条の保護法益
ところが猥褻文書は性欲を興奮、刺戟し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかしめる。そしてそれは人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している。もちろん法はすべての道徳や善良の風俗を維持する任務を負わされているものではない。かような任務は教育や宗教の分野に属し、法は単に社会秩序の維持に関し重要な意義をもつ道徳すなわち「最少限度の道徳」だけを自己の中に取り入れ、それが実現を企図するのである。刑法各本条が犯罪として掲げているところのものは要するにかような最少限度の道徳に違反した行為だと認められる種類のものである。性道徳に関しても法はその最少限度を維持することを任務とする。そして刑法一七五条が猥褻文書の頒布販売を犯罪として禁止しているのも、かような趣旨に出ているのである。
- 刑法175条の趣旨:(他の刑法各本条と同様*7)単に社会秩序の維持に関し重要な意義をもつ道徳=「最少限度の道徳」の維持。それ以外は、教育・宗教の役割。
3.わいせつ性の判断基準
この著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである。そして裁判所が右の判断をなす場合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、「個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない」こと原判決が判示しているごとくである。かような社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである。・・・。
従つて本著作が猥褻文書にあたるかどうかの判断が一部の国民の見解と一致しないことがあつても止むを得ないところである。この場合に裁判官が良識に従い社会通念が何であるかを決定しなければならぬことは、すべての法解釈の場合と異るところがない。これと同じことは善良の風俗というような一般条項や法令の規定する包括的な諸概念の解釈についてとくに問題となる。これらの場合に裁判所が具体的の事件に直面して判断をなし、その集積が判例法となるのである。
・・・かりに一歩譲つて相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならめのである。(← 「ならぬ」だと思います。)
- わいせつ性の判断基準は、一般社会における良心(=社会通念)
- しかし、この社会通念は、個々人の認識の集団・平均値ではなく、これを超えた集団意識であり、裁判官が判断するもの
- 一部の国民の見解と一致しなくても、裁判官が良識にしたがって判断し、その個々の集積が判例法となる。
- 相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても、裁判所は、臨床医的な役割で、社会を道徳的退廃から守る
4.表現の自由の限界
省略ということで。(´・(ェ)・`)
今日は、とりあえず判決文を簡単に要約したということで。すっ飛ばしたところもありますが・・・(^^;。オチはあるのだろうか・・・orz。