ある先生との「対話」

 一昨日ミクシに書いたものを、若干加筆。




 タイトルに「対話」と書いたが、その定義は人によって違うようなので、その定義はよくわからない。

 先日、憲法専攻ではない先生と数時間会話した内容を書くテスト。*1



 まあ、まだ駆け出しで、それほど憲法学に詳しくない先生(以下、A先生とする。)と、ただのじょしこーせいの会話なので、

 公法学における議論を正確に把握して会話しているかは疑問だけれど、 一応メモ書き。

 もうすでに忘れている部分多々あり…。(´・ω・`)

 すでに話の順序も忘れている罠…。

 というわけで、私の再現も不正確だし、新たに調べて書いているわけではないので、内容は公法学における議論をさらに捻じ曲げているおそれがあります…(^^;。



(1)芦部憲法学は安直な輸入学問?



 学界でも「安直さ」が批判されているようだけれど、はたしてそうなのか?

 「そのまんま輸入」したわけではなく若干の「修正」を施しているし、「輸入」することについて、芦部先生なりの「戦略」があっただろう。




 しかし、「安直」であったとしても、仮に最高裁が採用していれば、それほど批判されなかったのでは?

 なぜ「輸入」「修正」するのか、必ずしも文面に書かれているわけではないので、その点が「理解」されない可能性がある。

 だから、後の人との間に、「断絶」が起こる可能性がある。
 同じように考えると、批判している人たちも、自説を唱えるさいに、結局、「輸入」「修正」をするわけで、のちに、「安直」だと批判されるのであろう…。



 いずれにせよ、「理解」「批判」するためには、それなりの勉強が必要なわけで…。



 以上の点について、Aさんと私に大きな違いはなかったと思う。






(2)松井茂記教授と長谷部恭男教授


 A先生は、松井先生の議論は緻密であるという。

 他方、長谷部先生の議論は、ただ新しい議論を積極的に取り入れるだけの「新物好き」「ずさんな議論・信用ならない」と思っているようだ。

 はたして、そうような見方は妥当なのか?



 松井先生のプロセス理論については、

 政治的プロセスにそれほど関係のない人権も審査基準を厳しくする点について批判がされている。どうして厳しくするのか?と。

 また、依拠するアメリカの先生の議論を誇張してはいないかと。

 (数ヶ月前の前回の会話で私が指摘していた、淺野博宣「憲法学の現在・未来(7)プロセス理論へ」法学教室327号は未読の模様。)



 私の感想を、ラフに言うと、

 松井先生に対する批判は、ある意味当たっているけれど、ある意味当たっていない可能性がある。

 松井先生自身は、「輸入」するさいに適切な「修正」を施したと思っているのではと。(← ただの想像)

 その説明がない・不十分だから、他人には理解できない。



 
 長谷部先生も、かなり勉強されて、あのような主張をされている。

 「信用する・しない」は個人の自由だが、いずれにせよ、「批判」するためには、それなりの勉強が必要なのでは?

 と、私は思う…。

 (1)に対する姿勢とだいたいおなじなわけ。

 まあ、A先生も、特定の分野についてかなり勉強された上で、そのような感想を持たれているのだろうけれど…。






(3)人権のインフレ化



 A先生は、人権のインフレ化に批判的。

 まず、「何でもかんでも人権に含まれること」に批判的。

 その中に含まれる弁護士の主張に対するA先生の批判については、

 私としては、

 (従来から存在する)弁護士がする仕事の質の問題もあるし、裁判所の姿勢もあるし、

 上告理由の問題があるので、それらと分けないといけないと思う。




 次に、財産権を「人権」としないとする点。

 この点は、最高裁判例とも通説とも異なる立場。「その理由は何なのか?」をきちんと説明する必要があると思う。たとえば、財産権という人格権的側面を有する法律上保護に値する利益(?)が侵害された場合、違憲にできると説明するのであれば特に…。



 第三に、A先生が、人権のインフレ化を防止するために、民法では保護されないものを補充的に憲法で保護しようとするとすれば、何が残るのか?
 たとえば、人格権の場合、民法でも保障されるし、最高裁憲法を前面に出していないから、整合が取れそうだけれど、憲法で保障されていないと言い切れるのか?憲法で保障されうる権利として、「丸刈りされない権利」があるらしいけれど、その程度の権利しか保障されないならば、今までと同様、憲法を持ち出せば負けるってことにならないか?

 (うまく表現できないけれど、「権利の範囲」「制限の態様」「制限の正当化根拠」の問題を混同していないだろうか…。)



 いろいろな人が悩んで、工夫している部分と共通しているから、言いたい事に共感する部分はある。

 だけれど、そういう主張するのであれば、どこかの国の法制度・判例・学説など、もっと勉強しないといけないのではないか…。



 (仲野武志『公権力の行使概念の研究』の「凝集利益」の話が出たが、上と同じような感想なので、省略。)



 なお、私人間効力論でもそうだが、

 学者の足の引っ張り合いがあって、

 それを口実に「権利保障」されないのは問題だとも思う。






(4)最高裁裁判官への学者の登用



 藤田裁判官に対する公法学界の評判がいい。

 私法学界はどうか知らない。

 (だからといって、公法系の先生が最高裁判事になっても、公法学界で評判悪い先生がなったら…。)



 ちなみに、枠的に前任の人は、私法学界では評判いいらしいが、公法学界では…。

 (A先生がいうには、「民法学者は、憲法知らない」か「えらいから、憲法無視」するのだろう、だそうな…。)



 こう考えると、公法・民事法・刑事法からすくなくとも1人ずつ必要になってくる?

 しかし、各小法廷に1人ずついないと、影響少ない…。

 (そして、その1人を誰にするかでいさかいが…。)



 あと、憲法の先生は民事法・刑事法に明るくないが、逆は相対的に明るいので、たとえば、民法の先生(とくに憲法価値を重視する先生)が、憲法枠で登用されるのはよいと…。



 まあ、いずれにせよ、現実味に欠けた話(笑)。






(5)2冊の行政法教科書



 A先生がいうには、

 大橋洋一行政法』は、新物好き、種々雑多で読みにくく、

 藤田宙靖行政法(総論)』は、体系的で読みやすい、らしい。

 行政法総論改革の議論もよくわからないらしい。



 これも、(2)で述べたような感想を持った。つまり、

 好き嫌いの問題と、学問的評価を区別しろと。

 両者とも「輸入」「修正」をしているだろうし、

 それを「理解」「批判」するためにはそれ相応の勉強が必要だと…。



 現代の法現象を、行政法学として、どう体系化するべきなのか?

 たとえば、行政指導は日本の法文化に由来するということでFA?

 行政契約・行政指導・行政手続・行政計画・情報公開・自主規制・天下り規制などなどをどう位置づけるのか?

 逆に(極端に言えばだが)、現代行政法学は、行政行為中心でいいの?

 それでいいのなら、つまり、体系性・行政行為中心の観点からすれば、田中二郎でもいいぢゃまいか。



 いずれにせよ、「理解」「批判」するためには、それなりの勉強が必要なわけで…。



 などなど。



 A先生が今度書く論文の「相談」を、なぜか、じょしこーせーの私に来られて、その際、話が脱線して、上のような話になりました。おわり。

*1:つーか、そもそも訪問された理由は、今度書く論文の「相談」なんだけれど、ただのじょしこーせーに「相談」に来るのはどうして?