意見の多様性と多数決・その1

 みくCでは、9月1日から、コメントのやり取りがスタートしましたが、今回は、9月14日に書いた日記「呉越同舟」を若干加筆してこちらにうp。

 今日は、「いろいろ意見がありますよ。」程度の指摘を、外国人の地方参政権問題を例に。




 外国人の地方参政権問題は、ちょうど3年前の2005年11月2日の日記今年2月17日の日記で紹介していたんですね…。とおいめ

 法律による外国人の地方参政権付与(被選挙権を除く。)に関する見解を、憲法の視点から大きく3つに分けると*1

 (a)憲法の要請である(要請説、合憲説の1つ)
 (b)許容される(許容説、合憲説の1つ、最高裁判例もこれ。)
 (c)禁止される(禁止説、違憲説)

 「地方参政権付与すること自体が合憲かどうか」という視点だと、ラフに言えば(a)が違憲説、(b)(c)が合憲説というふうになる。

 「法律で地方参政権を付与することに賛成か反対か」という視点で言えば、憲法改正を考えない限り、(a)が賛成、(c)が反対であることは明らかだけれど、問題は(b)。

 (b)といっても、一枚岩ではないわけで、

 実際に、法律を制定するかどうか議論をした際に、

 (a)憲法上の要請ゆえに、付与賛成。
 (b-1):法律で許容される。付与賛成。
 (b-2):法律で許容される。付与反対。
 (c):憲法上禁止ゆえに、付与反対。

 というように分かれるだろう。



 つまり、付与することの合憲性の結論に着目すれば、(a)と(b)(c)の対立。

 付与することの是非(賛成・反対)に着目すれば、(a)(b-1)と(b-2)(c)の対立になる。

 もちろん、(a)(b-1)(b-2)(c)に最初から分かれていても良いけれど…。




 しかし、例えば、(b-2)の立場の者が、法律を制定する際に、(c)と協力し合う必要があるのではないか?

 (a)(b-1)の立場の者と議論する際に、なにか説得するための理由付け(げんなま?)が必要になるのではないのか?

 (b-2)の者が、「最高裁判決が法律で付与することを許容している」というだけで、(a)を説得できるのか?

 (a)を説得できるとしても、(b-1)には説得できないのかもしれない。



 そういうふうに考えていった場合に、違憲・合憲、賛成・反対を「常識だから」とか自分自身の感情のみで発言することがいいのかどうか、オフのみならず、オンの世界でも問題になってくるのではないかと思っているわけです…。



 ちなみに、今年2月17日の日記で書き忘れたことを、ここで紹介。

(1)「とりたてて母国の政府によって人権侵害を受けているわけではない人が、日本に定住し、生活している場合でも、国家間の任務分担の問題や、日本で生活する人々のコスト負担の公平に関して特別な困難をもたらさないのであれば、それらの人々に対して、日本人に対するのと同様の権利を保障しても構わないという結論が導かれるはずである。たとえば、定住外国人に対して選挙権を付与してはどうかという提案も、こうした考え方からすれば、実現の可能性を十便検討する余地があるということになる。」*2

(2)「〔外国人の権利のように、建前上平等と言いつつ、実質的に排除している〕『そういう態度は、本当に憲法を愛していることにならないんだから反省しなさい』ということになるんじゃないですかね。」*3

 さて、例えば、定住外国人地方参政権を付与しないことは、「本当に憲法を愛していることにならないから反省しなければならない」のかはさておき、そして、(従来のような?)自然権定住外国人への地方参政権付与賛成の理由にするのか、国家間の任務分担・コスト負担の公平性の問題から論証しているのかはさておき、いろいろ意見があって、賛成・反対の理由付けにもいろいろあって、そういう理由を示しながら議論しているのだろうということにしておきます、今回は…。

*1:「法律」に限るのか、どの範囲の「外国人」か、「参政権」のみか、どの「地方公共団体」のどの「選挙」に認めるのか、「地方レベル」のみか、どのような制度設計にするのかなどの問題には、触れません…。(´・ω・`)

*2:長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)』(筑摩書房、2004年)101ページ

*3:長谷部恭男・杉田敦これが憲法だ! (朝日新書)』(朝日新聞社、2006年)110ページ(長谷部発言)