明確性の要請・その3

 昨日の日記の続きです。徳島市公安条例が不明確かどうかという話です。




 さて、1月23日の日記でまとめた一般的基準を再掲。

 1.犯罪構成要件があいまい不明確ゆえに憲法31条に違反し無効となるのは、
  (a)通常の判断能力を有する一般人が、禁止される行為とそうでない行為を識別するための基準がないこと
  (b)つまり、憲法31条がそれを禁止する趣旨は、
   (1)刑罰の適用を受ける国民に対する刑罰の対象となる行為をあらかじめ告知すること
   (2)その運用が国家機関の主観的判断に委ねられ恣意に流れることを防止すること
  にある。
 2.もっとも規定の文言の表現力には限界があり、その性質上、多かれ少なかれ抽象性を有し、刑罰法規も同様である。
 3.つまり、刑罰法規においても、禁止される行為とそれでない行為を可能ならしめる基準を必ずしも絶対的に要求することはできず、合理的な判断(解釈)の必要性がある。
 4.それゆえに、ある刑罰法規があいまい不明確ゆえに憲法31条に違反するかどうかは、通常の判断能力を有する一般人において、具体的場合に当該行為が違法かどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによって決定すべきである。

 ちなみに、芦部信喜新版 演習憲法 (法学教室選書)』(有斐閣、1988年)91頁によると、この基準自体は問題ないそうです。例えば、「条例」に重要な基準が明示されていなくても、下位規範で明示するとか、解釈から読み取れればいいのでしょうか?本質性理論を取る方はどう思われているのでしょうね。解釈論として違憲になるのでしょうか?立法論・政策論として明示したほうが良いとお思いなのでしょうか?



 で、話を戻します。徳島市公安条例3条3条の「交通秩序を維持すること」という規定が犯罪構成要件の内容をなすものとして明確であるかどうかについて、最高裁は、この基準に従いつつ、不明確ではないといったわけですね。重複する部分もあるし、ちょっと長いですが引用。

 右の規定は、その文言だけからすれば、単に抽象的に交通秩序を維持すべきことを命じているだけで、いかなる作為、不作為を命じているのかその義務内容が具体的に明らかにされていない。全国のいわゆる公安条例の多くにおいては、集団行進等に対して許可制をとりその許可にあたつて交通秩序維持に関する事項についての条件の中で遵守すべき義務内容を具体的に特定する方法がとられており、また、本条例のように条例自体の中で遵守義務を定めている場合でも、交通秩序を侵害するおそれのある行為の典型的なものをできるかぎり列挙例示することによつてその義務内容の明確化を図ることが十分可能であるにもかかわらず、本条例がその点についてなんらの考慮を払つていないことは、立法措置として著しく妥当を欠くものがあるといわなければならない。

 (しが研注:一般的基準の定立部分の「しかしながら」以下、省略。)

 そもそも、道路における集団行進等は、多数人が集団となつて継続的に道路の一部を占拠し歩行その他の形態においてこれを使用するものであるから、このような行動が行われない場合における交通秩序を必然的に何程か侵害する可能性を有することを免れないものである。本条例は、集団行進等が表現の一態様として憲法上保障されるべき要素を有することにかんがみ、届出制を採用し、集団行進等の形態が交通秩序に不可避的にもたらす障害が生じても、なおこれを忍ぶべきものとして許容しているのであるから、本条例三条三号の規定が禁止する交通秩序の侵害は、当該集団行進等に不可避的に随伴するものを指すものでないことは、極めて明らかである。ところが、思想表現行為としての集団行進等は、前述のようにへこれに参加する多数の者が、行進その他の一体的行動によつてその共通の主張、要求、観念等を一般公衆等に強く印象づけるために行うものであり、専らこのような一体的行動によつてこれを示すところにその本質的な意義と価値があるものであるから、これに対して、それが秩序正しく平穏に行われて不必要に地方公共の安寧と秩序を脅かすような行動にわたらないことを要求しても、それは、右のような思想表現行為としての集団行進等の本質的な意義と価値を失わしめ憲法上保障されている表現の自由を不当に制限することにはならないのである。そうすると本条例三条が、集団行進等を行おうとする者が、集団行進等の秩序を保ち、公共の安寧を保持するために守らなければならない事項の一つとして、その三号に「交通秩序を維持すること」を掲げているのは、道路における集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合にこれに随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為を避止すべきことを命じているものと解されるのである。そして、通常の判断能力を有する一般人が、具体的場合において、自己がしようとする行為*1が右条項による禁止に触れるものであるかどうかを判断するにあたつては、その行為が秩序正しく平穏に行われる集団行進等に伴う交通秩序の阻害を生ずるにとどまるものか、あるいは殊更な交通秩序の阻害をもたらすようなものであるかを考えることにより、通常その判断にさほどの困難を感じることはないはずであり、例えば各地における道路上の集団行進等に際して往々みられるだ行進、うず巻行進、すわり込み、道路一杯を占拠するいわゆるフランスデモ等の行為が、秩序正しく平穏な集団行進等に随伴する交通秩序阻害の程度を超えて、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為にあたるものと容易に想到することができるというべきである。
 さらに、前述のように、このような殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為は、思想表現行為としての集団行進等に不可欠な要素ではなく、したがつて、これを禁止しても国民の憲法上の権利の正当な行使を制限することにはならず、また、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為てあるかどうかは、通常さほどの困難なしに判断しうることであるから、本条例三条三号の規定により、国民の憲法上の権利の正当な行使が阻害されるおそれがあるとか、国又は地方公共団体の機関による恣意的な運用を許すおそれがあるとは、ほとんど考えられないのである(なお、記録上あらわれた本条例の運用の実態をみても、本条例三条三号の規定が、国民の憲法上の権利の正当な行使を阻害したとか、国又は地方公共団体の機関の恣意的な運用を許したとかいう弊害を生じた形跡は、全く認められない。)。

 (しが研注:結論部分の「このように見てくると」以下、省略。)

 長いので、例のごとく、拙く簡単にまとめますと、

 1.「文言だけからすれば、単に抽象的に交通秩序を維持すべきことを命じているだけで、いかなる作為、不作為を命じているのかその義務内容が具体的に明らかにされていない。」「交通秩序を侵害するおそれのある行為の典型的なものをできるかぎり列挙例示することによつてその義務内容の明確化を図ることが十分可能であるにもかかわらず、本条例がその点についてなんらの考慮を払つていないことは、立法措置として著しく妥当を欠く」。*2
 2.「道路における集団行進等は、多数人が集団となつて継続的に道路の一部を占拠し歩行その他の形態においてこれを使用するものであるから、このような行動が行われない場合における交通秩序を必然的に何程か侵害する可能性を有することを免れない」。
 3.「集団行進等が表現の一態様として憲法上保障されるべき要素を有することにかんがみ」、当該集団行進等に不可避的に随伴するものを条例が禁止しているはずがない。
 4.条例が禁止しているのは、「道路における集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合にこれに随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為」であって、「参加する多数の者が、行進その他の一体的行動によつてその共通の主張、要求、観念等を一般公衆等に強く印象づけるために行うものであり、専らこのような一体的行動によつてこれを示すところにその本質的な意義と価値がある」「思想表現行為としての集団行進等の本質的な意義と価値を失わしめ憲法上保障されている表現の自由を不当に制限することにはならない」。
 5.「通常の判断能力を有する一般人が、具体的場合において、自己がしようとする行為が右条項による禁止に触れるものであるかどうかを判断するにあたつては、その行為が秩序正しく平穏に行われる集団行進等に伴う交通秩序の阻害を生ずるにとどまるものか、あるいは殊更な交通秩序の阻害をもたらすようなものであるかを考えることにより、通常その判断にさほどの困難を感じることはないはずであ」る。
 6.「例えば各地における道路上の集団行進等に際して往々みられるだ行進、うず巻行進、すわり込み、道路一杯を占拠するいわゆるフランスデモ等の行為が、秩序正しく平穏な集団行進等に随伴する交通秩序阻害の程度を超えて、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為にあたるものと容易に想到することができるというべきである。」
 7.この規定により、「国民の憲法上の権利の正当な行使が阻害されるおそれがあるとか、国又は地方公共団体の機関による恣意的な運用を許すおそれがあるとは、ほとんど考えられないのである(なお、記録上あらわれた本条例の運用の実態をみても、本条例三条三号の規定が、国民の憲法上の権利の正当な行使を阻害したとか、国又は地方公共団体の機関の恣意的な運用を許したとかいう弊害を生じた形跡は、全く認められない。)。」*3

 ( ゚∀゚)・∵. ガハッ!! ぜんぜん要約になっていませんね(^^;。
 まあ、要するに、

 (a)文言は抽象的だというそしりは免れないけれど、文言の明確化には限界がある。

 (b)一般人が具体的な場合において、違法かどうかを判断できる基準が読み取れるかどうかで判断する場合、集団行進の自由が保障されているので、秩序正しく平穏に集団行進する場合に不可避的に付随する交通秩序の阻害は許されるとして、「殊更な交通秩序を阻害するような行為」を制約しても国民の権利自由を不当に制約することにはならず、その区別は一般人にも判断可能だろうと。

 (c)当時、各地において往々に見られた蛇行進などは、「殊更な交通秩序の阻害」に該当することは明らかであるから、不明確ではない。




 この判決(多数意見)については、いろいろな批判ができます。

 (a)の点で言えば、文言が抽象的だったら、そもそも違憲だとかいえそうです。しかし、判例がしているように、不明確な条文を解釈で明確化して合憲にするような合憲限定解釈も限度はあるにせよ可能である。

 (b)合憲限定解釈をするとして、判例は、「秩序正しく平穏に集団行進する」ことを求めていますが、条例だけで「殊更な交通秩序の阻害をしてはいけない」ということを一般人が認識できるのかどうか。
 (c)さらに、蛇行進などが、一律的に、「殊更な交通秩序の阻害をする」ものに、該当するのかどうか、それを一般人が認識できるかどうか*4



 さて、この判決の3ヵ月あまり後、徳島県公安委員会は、昭和50年12月23日徳島県公安委員会規程第2号集団行進及び集団示威運動に関する条例の運用に関する規定を制定して、「条例第3条第3号の『交通秩序を維持すること』とは、だ行進、渦巻行進、すわり込み、いわゆるフランスデモ、他のてい団との併進あるいはことさらなかけ足行進、おそ足行進等殊更な交通秩序の疎外をもたらすような行為をしないことをいう。」との規定を設けたそうです*5



 さらに蛇足ですが、本件事案は、公安条例が問題となったわけで、簡単に言えば、道路交通法では規制されないような部分について、有罪判決が確定したわけです。では、道路交通法で規制できないかといえば、規制できます。というのが問題になったのが、最判昭和57年11月16日、昭和56年(あ)561事件、刑集36巻11号908頁。ちなみに、ここで言う「道路」には、実務上、空き地、広場、公園、神社などおよそ現実に集団行進が行われるすべての場所を含むとされています。

 また、「集団行進」の定義とか、許可制・実質届出制・届出制の違いはさておき、無断で、羽田空港ターミナルビルデイング内国際線出発ロビーで集団示威運動をした件について、可罰的違法性論を否定した事例として、最判昭和50年10月24日、昭和46年(あ)729事件、刑集29巻9号777頁があると。



 駆け足で結びに変えさせていただきますが、こうして、日本では、まず許可を得るべく申請して、条件(学問上の附款)を付され、その条件に違反しないよう、道路の1車線くらいを使って、静かに行進するということになっているわけですね。そういうふうに集団行進しましょうね。間違っても、条件に違反するようなことはしないように!!

 また、いつからかは知りませんが、そういうデモで主張されている内容が、頓珍漢だとか、交通の邪魔だとか、不快だと周囲から思われるようになったわけですね・・・。それに慣れていると、思わぬホメゴロシがあったりなんかして・・・。(´・ω・`)

*1:しが研注:最高裁HPでは「しょうとする行為」になっています(^^;。

*2:しが研注:例示列挙ということは、限定列挙ではないということですね・・・。一例だけ挙げれば、条例自体が遵守事項を定めている埼玉県の集団行進及び集団示威運動に関する条例3条3号には、「行進の場合は、横列四人縦列二十五人以内をもつて一隊としてこれに指揮者をつけ、各隊の距離は五メートル以上で、且つ、蛇行行進しないこと。」と規定されています。例示列挙だとすると、さて、どうなるのでしょうか? (^^;

*3:しが研注:例えば、警察官が取り締まっていない場合は記録にはあがらない可能性があるわけですね。また、数年間の運用実態があるからといって、条文が明確になるんでしょうか・・・(^^;。

*4:これらに関連して、自分は有罪にあたる行為をしたとして、他人には不明確な条文だから、他人の主張を自分が援用できるかといった論点もあります。

*5:参照、最高裁調査官による判例解説、小田健司・法曹時報28巻5号(1976年)178頁。ネットで検索しましたが、探しきれませんでしたorz。