明確性の要請・その1

 1月18日の日記の別の論点について書こうと思います。つまり、新年早々、長々と書いた「法律の留保」のエントリー、そのうちの1月8日の日記で紹介した、まだあまり知られていないであろう「本質性理論」においては、明確性の要請も体系的に議論されていると。

 しかし、その点については、従来の学説は別途検討しているから、別途紹介しようと。そして、問題となるのは、体系的に理論化する場合、別途検討する場合、いずれにしても、日本において、どの程度、法律の明確性が要請されるかが気になるところです。




 憲法の教科書でよく取り上げられるのは、刑罰を科す場合と表現の自由の制約の場面ですから、その点に絞って、有名な判例を紹介して、その点を、チョットだけ検討ということにしましょう。

 ところで、従来の憲法学においては、1月11日の日記で触れたように、租税を課す場合(憲法84条)・刑罰を科す場合(憲法31条)のほかに、表現の自由憲法21条)の重要性から、その3つに限って(?)明確性を要求するようです。本質性理論だと、他の領域についても要求でしょう。そうだとすると、今までの学説動向から予測すれば、「これまでの領域外にも明確性を要請しているから、その領域外について、それほど要請されない部分についても明確性が必要だとすると、核心部分の緩和にもつながりかねず、明確性の要請を緩和してしまう。」とも言われそうな気がします。その辺については、パスします*1
 以下に述べることは、ほとんど、注に挙げた長谷部恭男『憲法 (新法学ライブラリ) 第三版』(新世社、2004年)207−209頁の簡潔にまとめられた“漠然性のゆえに無効の法理”と“解釈の限界”を、ぐだぐだ書くような気がしてならないのですが・・・(^^;


判例の一般的基準

 まずは、徳島市公安条例事件(最大判昭和50年9月10日、昭和48年(あ)910事件、刑集29巻8号489頁)から引用。

 しかしながら、およそ、刑罰法規の定める犯罪構成要件があいまい不明確のゆえに憲法三一条に違反し無効であるとされるのは、その規定が通常の判断能力を有する一般人に対して、禁止される行為とそうでない行為とを識別するための基準を示すところがなく、そのため、その適用を受ける国民に対して刑罰の対象となる行為をあらかじめ告知する機能を果たさず、また、その運用がこれを適用する国又は地方公共団体の機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずるからであると考えられる。しかし、一般に法規は、規定の文言の表現力に限界があるばかりでなく、その性質上多かれ少なかれ抽象性を有し、刑罰法規もその例外をなすものではないから、禁止される行為とそうでない行為との識別を可能ならしめる基準といつても、必ずしも常に絶対的なそれを要求することはできず、合理的な判断を必要とする場合があることを免れない。それゆえ、ある刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法三一条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつてこれを決定すべきである。

 てけとーに、恣意的にまとめますと、

 1.犯罪構成要件があいまい不明確ゆえに憲法31条に違反し無効となるのは、
  (a)通常の判断能力を有する一般人が、禁止される行為とそうでない行為を識別するための基準がないこと
  (b)つまり、憲法31条がそれを禁止する趣旨は、
   (1)刑罰の適用を受ける国民に対する刑罰の対象となる行為をあらかじめ告知すること
   (2)その運用が国家機関の主観的判断に委ねられ恣意に流れることを防止すること
  にある。
 2.もっとも規定の文言の表現力には限界があり、その性質上、多かれ少なかれ抽象性を有し、刑罰法規も同様である。
 3.つまり、刑罰法規においても、禁止される行為とそれでない行為を可能ならしめる基準を必ずしも絶対的に要求することはできず、合理的な判断(解釈)の必要性がある。
 4.それゆえに、ある刑罰法規があいまい不明確ゆえに憲法31条に違反するかどうかは、通常の判断能力を有する一般人において、具体的場合に当該行為が違法かどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによって決定すべきである。




 最高裁は、同様の基準を、憲法21条についても、9年後に用いています。私も先日まで検討してきた税関検査事件(最大判昭和59年12月12日、昭和57年(行ツ)156事件、民集38巻12号1038頁)です。

 表現の自由は、前述のとおり、憲法の保障する基本的人権の中でも特に重要視されるべきものであつて、法律をもつて表現の自由を規制するについては、基準の広汎、不明確の故に当該規制が本来憲法上許容されるべき表現にまで及ぼされて表現の自由が不当に制限されるという結果を招くことがないように配慮する必要があり、事前規制的なものについては特に然りというべきである。法律の解釈、特にその規定の文言を限定して解釈する場合においても、その要請は異なるところがない。したがつて、表現の自由を規制する法律の規定について限定解釈をすることが許されるのは、その解釈により、規制の対象となるものとそうでないものとが明確に区別され、かつ、合憲的に規制し得るもののみが規制の対象となることが明らかにされる場合でなければならず、また、一般国民の理解において、具体的場合に当該表現物が規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめるような基準をその規定から読みとることができるものでなければならない(最高裁昭和四八年(あ)第九一〇号同五〇年九月一〇日大法廷判決・刑集二九巻八号四八九頁参照)。けだし、かかる制約を付さないとすれば、規制の基準が不明確であるかあるいは広汎に失するため、表現の自由が不当に制限されることとなるばかりでなく、国民がその規定の適用を恐れて本来自由に行い得る表現行為までも差し控えるという効果を生むこととなるからである。

 まとめなくて良いですよね(^^;。

 (a)徳島市公安条例事件を引用していること

 (b)表現の自由を規制する規準が不明確な場合(さらには広汎な場合も)、表現の自由を不当に制限したり、萎縮効果を生む。

 (c)したがって、規制の対象となるかが明確に区別され、それが一般国民の理解において、具体的場合に当該行為が規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめる基準をその規定から読み取れなければならないと。



 とりあえず、判例の基準の紹介で今日は終わります。m(_ _)m

*1:その点についても、一応、うまく説明している教科書の代表例は、長谷部恭男『憲法 (新法学ライブラリ) 第三版』(新世社、2004年)でしょうか・・・(^^;。「『人の支配』ではなく、『法の支配』を実現するためには、何よりもそれが従うことの可能な法ではなければならず、法に基づいて社会生活を営むことが可能でなければならない。そのためには、①法が一般抽象的であり、②公示され、③明確であり、④安定しており、⑤相互に矛盾しておらず、⑥遡及立法(事後立法)が禁止され、⑦国家機関が法に基づいて行動するよう、独立の裁判所によるコントロールが確立していることが要請される(・・・)。」(21−22頁)。ただ、素人目で表面的に見ると、これは原則であって例外があるのではないのか。例えば、(a)「法」って何なのか?、(b)特定の人間や団体のみに適用されることを前提とする「法律」はどうなのか?、(c)刑罰の遡及立法は認められないとして、それ以外の遡及立法は認められるのか?、(d)毎年改正される法律は「安定」していると言えるのか?とか、いろいろよくわかりません。><